アドバイス誰かくれたらラッキーとか思って出してみたのに、おおこんなことが書いてあったのね!みたいに読まれてるとなんかすごく申し訳なくなってくるあれ…
多少の違いは関係ない!みたいだけど、やっぱちょっと前置詞とり違うだけで意味変わっちゃうし、絶対間違ってる部分あると思うんだ…でも自分では分かんないし><
暇だからあれこれやってみて、それを無意味とは思わない(勉強にはなってると思うある程度)けど、短時間でできるのはそれだけ考えるための種(選択肢)を持ってないことなんだよね。
前に指摘されたけど本当にその通り。
なので、真面目に授業受けてちょっとずつ種を拾いたい。
けど、それまでも、単語入れたり実際の字を判読する訓練のつもりでやってみると思う…。
プロじゃないし、ちゃんと正確に、は一生無理かもしんないし
間違えたところでまあ素人のやることなので影響はないだろうってことで…。
まあなにより、たのしいし
楽しいことがないと生きる意味なんてないからネ。
あとで恥ずかしくなってやめるかもしれないけど…w
その時のことは、その時になって考えます(いつもの)。
*
門の書の一部 PTっぽい・・・
↑バッジ訳「ヌト、大いなる形づくる?もの」
でもSnmという単語は実際にはないみたいで
じゃあどう訳すのか。わかんないけど、S Xnm wrt だとしたら「大いなる取り囲む湖」みたいな意味になって
あーすっごくヌトっぽい。とか思うじゃないですか。ヌトのイメージそのまま。
だから、やっぱちゃんとしたエジプト語を読みたい。と、思う私。
(ちがったらごめんなさい)
*
たとえば古代エジプトの宗教思想について、
『死者の書』と『アムドゥアト』と『門の書』とかそういうものが、
どれも「冥界を死者が旅するものである」というくくりで「同じ」とざっくり見るのは
場合によってはアリなんだろうなあと思う(他文化との比較とかの場合…)、
けど、
私は、それぞれの違いを知りたいし、
特に、実際よく似た感じがする「アムドゥアト」と「門の書」が、だけど違うんだということをちゃんと知りたい。
という立場かな。と思って
じゃあ見方が違うのもしょうがないのかなって思う話なんです。
わたしはだから、
門の書がアムドゥアトより後、とくにアマルナ後に出始めた、
みたいなことがすごい大事に思うんですよ。わくわくする。アマルナのあとだから思想転換ありそうみたいな。180度じゃないにしてもよ。10度でも大きい。
そしてアムドゥアト自体の成立についても
それ以前の、コフィンテキストとかと違って、「
太陽神が死者の世界をめぐる」という思想に焦点が当たってるという話がすごく面白いの。CTあんま読んでないのでよく知らんけど。
少なくともPTでは、太陽神=王は、地下の暗い所には行かないみたいな考えを強調していた気がする。地下に入ってもまた上にあがる、上がる、上に!みたいな。あんま地下のことには触れたくないみたいな感じの。
ところがその後、地下について詳細に説明しだすんですよ。死者の書を経て、かもしれないけど。王様、太陽神も地下をめぐるんだ、そしてそれは「こんなふうだ」って詳細に。
天の牛やってみたときにもなんか思った。「これからは太陽神が死後の世界も周るから」って説明になってる気がして。
そう、なんか、天の牛の書ってよく「太陽神ラーが地上の人々と決別して天に上った」話だ、と説明されるし、実際そうなんだけど(特に前半は)、
後半は、ラー神が地下の世界に行くから、ゲブはあの悪い蛇どもを何とかしろ(褒美にお前の息子オシリスを地下世界の王にしてやるよ)、トトは不満を持ってる奴らを呪文で何とかしろ(褒美に夜の天はお前が代理でいいよ)、って話になってて。
読むまで知らなかったからか、こっちのほうがぐっときたりして。
天空の創造を中心に据えながら、オシリスとトトの神性について神話で説明してるんだよ。いいよねー。それこそ「物語で」ではなく、ラーのセリフという形で「理由付け」をされてる程度ではあるけど。
そして前半部分に比べて複雑な物語になっていないあたり、新しいというか、これまであったものをどうにかした感じではないかも、とか、思ったんですよね。まあでもこれ想像ですけど。w
同じ死者の世界を旅すると言っても
死者の書みたいに、故人が冥界の恐ろしいものをくぐり抜けるため、多くの名を知ることと神々の秘儀を知ること、に焦点を当てている内容と
アムドゥアトみたいに、太陽神(≒王)が多くの神々にサポートされながら冥界を通り抜け、そのあいだも自身の恩恵を死者に分け与える、みたいな内容では
だいぶん違うと思う方です。
門の書とかはまだ読んでないので…(洞窟の書とかになるとなおさら)だけど、ざっと見た感じ、
どちらも大まかには上に書いた通りだけど、
アムドゥアトが門や領域や時間の名と、そこのようすを順番に描写しているのに対し、
門の書なんかは、それぞれの場面における復活のための秘儀、みたいなものに焦点を当ててる感じはするかも。
ラーの連祷とかはほんと変わっていて、異名の羅列みたいなとこがあって、聖なるものの神性さ(意義の多重性というか)を描き唱えることで強調する感じなのかなっていう。読んでて面白くはなさそうだけど、唱えられたらぞくぞくしそうだよねっておもう。意味内容より演出効果っていうか…。
そういう「違い」が分かったら、すごく楽しいなあと思う。
「どうして」なのか、が分かったら、もっと楽しいなあと思う。
いまそういうかんじ。