推しの供給をうけとるためネトフリ入ったところ
アンの実写化があったので見てみた。
(ほんとは、アンの感想見て回ろうと思ったらネトフリで見れるこれがヒットした)
・原作をちょっと改変しているらしい←これは良くないかも……
・アンがすごくアンらしい←これは見てみたい
…ということでいつものように半信半疑で見てみました。
はじめしばらく、アンがあまり感情を強く出さないので、ちょっとどうだろう?という感じでしたが
いっぱい早口にしゃべるし、痩せててそばかすいっぱいで、
なにより、かばんが、描写の通りのやつだった!これだーーーーーー!!!
赤毛のアンは昔の名作劇場のアニメと原作(日本語訳)しか見てないですが
これはすごいかも!!!
ちょっとマシューがしっかりした顔つきで、実際イメージより喋るし比較的しっかりしてますが
だいたいのキャラがイメージ通り。
特にアンはすごいですね、こんなそのままの子がいるなんて。
感情的になるところも、早口でまくし立てる所も、もう完璧というか。
あと笑うときに八重歯が見えてむっちゃ愛嬌あるです。かわいい…。
お話の改変は確かにありました
構えていたし、うーんどうだろう…と思いつつ見たんですが、
その改変をくわえる理由がちゃんとあるなと感じたというか
むしろ、こっちのほうがいいかもって思える部分もあったので
私は好きです。シーズン1は。
とりあえず良い所からまとめていきたい。
『アンという名の少女』
元タイトルは『Anne with an "E"』(Eのつくアン)ってかんじで
原作が『Anne of Green Gables』をタイトルにして、アンが彼女自身のhome(居場所=グリーンゲイブルズ)を手に入れるお話(そしてマリラやマシューにとっても、アンのいるそこが「本当の」我が家になる)になっていると読みましたが
今回はタイトル通りというか、
アンが、自分の名前について「さいごにeを付けてほしい」と懇願したところから来てますが、
つまり「Ann」じゃなくて、”わたし”は「Ann”e”」なの!という、こだわりの現れ。
そのとおり、すごく「個」にこだわりを持って描いてるなと感じます。
基本シーズン1の感想になりますが
原作を大事にしつつも、話をくわえたり削ったりして、
より「理由付け」をしっかりしている、ということを強く感じました。
(とはいえ、原作通りの部分もあって、そこには原作愛というか、ここは大事だから入れました!というのが伝わって、分かるーとなりました。
はじめのマシューの「わしらが(あの子の)役に立つかも」と言うところとか、
ダイアナと会わせないとバリー夫人に強く言われて泣きながら眠ってしまったアンにマリラがキスするところとかです。母性の目覚め!)
まあとりあえず
この作品は原作に比べて、けっこう重い感じで表現しているし、
原作はそうしてみると、けっこうユーモアにあふれた陽気な作品だなあと感じます。悪いことがあまり書かれていないというか。はい。
以下、ネタバレを含みます。↓
例えば、学校のところ。
原作ではすぐにお友達がたくさんできてちやほやされてる様子のアンですが
こっちでは、ちょっと意地悪されたり、なんか変な子って見られる。
このあたり、そりゃそうだろ!ってなったよ。
あの喋り方で、そんなたくさんはじめから友達に受け入れられるのとっても不思議だったし…。
(田舎にやってきた孤児、というだけで遠巻きに見ているのはあるけど、ダイアナがどうにかしようと奔走していたので、それだけだと徐々にどうにかなる感じがあったかも…。しかしあの空気の中でよくもあんな風に立ち回れるよ、ダイアナ尊敬するよ)
でも今回のけものにされるのにも理由をつけていて
しかもその理由がものっすごい強烈で。これはびっくりした。
ここは明確に言葉にされてないけど、なるほど13歳以上推奨なのねとそこで確認して納得したり。
いやな感じだけど、それは本当にありそうで。何が悲惨って労働とか体罰とかだけじゃないっていうか
それを、マリラはすぐには気づけず、マシューが気づいてくれて(私たいてい勘が悪いけどこれは嬉々として喋るアンを見ててピンときたよ…「この歳でこんなことをなぜ知ってるのか」しかもどう思われることかは分かってないというね… もう、うわーてなる。こういうことむっちゃやりそ―って思ったんだろうね)
マリラが(アンに侮辱されたことになる)相手の家に謝りに行くんだけど、当然のように親御さんご立腹で、しかもアン自身についてひどい言葉で罵ったので、マリラが「(発言は非難されて当然でも、)彼女が見聞きしたことは彼女の責任ではない」「想像を絶する境遇に苦しんできた」と強めに言ってくれたのすっごくスッとしました。
(こういうのなにが辛いって、あの様子だとそれが「悲惨なこと」であると"今は"アンは気づいていないということ、翻って、あとで気付いてしまう、ということなんだよね…。されたこと含め、自分が知らなかった事とこうした発言をした事もぜんぶあとで「意味が分かる」、その瞬間が死ぬほど恐ろしいし、残酷すぎる)
相手の親御さんの表情を見ると、理解できたんじゃないかなって思わせてくれる感じで(教養のあるお家みたいだし)。そのあたり実際どうかははっきり描かれてないけども。
そうそう、はじめのほうで
マリラがアンを引き取るかどうか、試用期間みたいなのを設けている(原作にはない)あいだに
あのアメジストのブローチ事件を持ってきて、その結果「信用できない」と激昂して孤児院に追い返してしまう、という展開を入れます。
オープニングでマシューが馬に乗って疾走しているので、マシューらしくないなあ…と思っていたのですが、この後誤解がとけて、アンを連れ戻すために走ってたんですね。なるほどマシューでもアンのことならこれだけ疾走するのもうなずけるかも。
なんやかんやあってどうにか戻ってきますが、
それまで視聴者は、落ち着かない、憔悴しきったマリラ、そんなときに気を紛らわすためにいらん掃除に精を出す様子とかむっちゃ見せられてるんですが(何なら最後涙をこぼしている)
何も知らないアンが喜んで戻って来た時、ニコリともせず、何ならちょっとイライラした様子で「荷物を置いて。夕食ですよ」と。
分かるよ…私ももう大人だから、これは気まずすぎて、むしろ自分に腹が立ちすぎて、いつも以上につんつんしちゃうやつだよね。
特にマリラは、自分の感情をうまく外に出せないからね。
でもアンみたいな少女にはこんな態度「あんたなんか嫌い」としか読めないよね。
わかるーーーーーー!!!
私はそもそもマリラ、自分の中にあるユーモアや母性愛みたいなものをずっと閉じて、使う機会もなく生きてきたせいで取り出すドアがサビ切ってるみたいな、そういう彼女が好きで、その成長物語だよなあと思って見てるとこあるので、
こういう描写があったのは嬉しいです。
アンはもちろん、マリラも、(他の女性もですが)個人として丁寧に見ていて、つまりここでは「孤児を受け入れたおばさん」じゃなくて「うまく母親になれないマリラ」みたいに描いてるの。
まあ、それがシーズン2にはより強くなって、私には「やり過ぎ」に見えたので、見るのやめちゃいましたが。
閑話休題、
このあといろいろアンが耐えられなくなっていろいろぶちまけたところで、マリラが「しつけをすべき母の代理としての立場」ではなく「ひとりのマリラという人間」として謝罪をし、素直に自分の思いを言葉にして許しを請うシーン、なかなか良かったと思います。
そのあとから明らかに笑顔を見せることがふえたマリラの演技すごく素敵でしたね~~~!
まあ、とかとか、
途中、仲悪いクラスメイトの家が火事になって、家を直してる間その子がアンの家で過ごすんだけど、
いろいろしているうちにアンと仲良くなる感じとか入れてて
いきなりみんなに好かれるという原作の超展開をもっと丁寧に描いてくれてるところは、すごく好感が持てて良き~~と思いました。
アンが、空想をしていないと生きられないような環境に長くあったのは確かだけど
同じ環境でみんなああなるわけじゃないので
やっぱり、過空想癖(今名付けた)は彼女の特性で、
それは汚点でもあり、しかし美点でもある。
けど、原作では美点が強調されていて、私はそこにモヤついていたんだけど
こっちでは汚点のほうをしっかり取り上げているので納得感がありますという話。
美点になるだろうけども(まあむしろそれはびっくりだけどあり得るという感覚)、強烈な汚点になるだろう、その方が想像されるのに、原作では「空想のし過ぎで忘れてた」くらいしかなくて(まあ、ひとつだけ、空想が過ぎて嘘がほんとに感じてしまったことはあるけど)。
そこがまず好きじゃなかったんだよなアン。都合がいい。
名作劇場のアニメでもそこがすごく上手く再現されてて、だからこそ、私は嫌いだったんだよ。
さらにパフスリーブだとか鼻の高さとか、自分のことだけならまだしも人のこともジャッジするし、見た目ばかり言うの私もマリラと同じ意見でむちゃ嫌なのよ、
なのに、まるで賛歌(女の子なんだから当然興味あるわよね~だって素敵なことじゃない!という感じ)のようにそれを描いてるんだもんなこの作品。ははは。
やっぱこの作品が子供のころから好きだと、そういうとこは賛同できるのかしら…。私はその気持ちが分からないんだよ…。
そうそう、もうひとつ、
この『アンという名の少女』オリジナルの展開で、私がぐっと来たところがあって、
それはマリラが先進的な女性の集会みたいなのに参加することになる話。
マリラは全く先進的じゃなく(保守的で)、集会に来てるほとんどのママさんのように若いわけではない、
けど、初めて「子供を育てる」というとき、よくわからないけどそれが我が子に必要ならば飛び込んでみなければ!という覚悟がみえて
ああああーーーーーーーーーーーーーーーーってなった。わら。
子供育ててると自分が興味ないことでも関わらなくちゃいけないことが足されていくよね。
その世界に興味がないからって子供がしたいなら最低限の手伝いはしないとだし(最低限しかしなかったけど)
そこでの人付き合いというのもあるし…。
(私の場合は周りの人がいい人ばっかりで本当助けてもらいました…なんもできないのに)
なかなか難しいよねえ…。
なんか、浮いてるかも・・・て思いながら必死でどうにか最低限はこなそうとする感じを思い出してしまいました。私の中のリアルだったという話です。
あーあと
ギルバートのパパが亡くなったとき、アンがけっこう思いやりのない言葉をかけて怒らせてしまうんだけど
これはなんか、むしろそういうことがあっていいというか、自然かもって思ったかも。
何でもかんでも想像力とかでカバーできるとは私は思わないし…まだ年齢もあれだしね
あとで、自分事になってやっと気づくこと、どうにか謝ろうとするところが、人間らしいというか、すごく好感を持てました。
そうだよね、自分事にならないと、なかなか分かんないよね……そっちの方が私は共感できるよ。うん。
あとはバリーのおばさまですね、あの気難し屋の。
あの人がミニー・メイの咽頭炎の現場にいて(!)、そこでアンのようすを目にして、気に入るという展開になってましたね。
うーん…と思ったけどまあ、べつにそんなに悪いことじゃないのかも。展開に無駄がない感じで。(変えんでもええやろと思っただけです)
あとねえ、
このことも含めてなんだけど、
原作では、アンの空想力や言葉の巧みさみたいなものが人の心を開かせる、という感じがあって
そこがまた、アン独特というか、なかなかほかに居なそうだけど、まあそういうこともあるのかもって思わせるところで。
リンドのおばさんとかね、原作ではじめに謝るときに、アンの大仰な表現にも素直に心動かされて、こんなに反省してるなら、と許してくれる展開がありますよね、原作には(マリラには一切通じないやつ)。
でもこの作品では、リンドのおばさんも見抜いてるようにも見えたし(ちょっと分からないけど、マリラと一緒に呆れてる表情に見えたかも)、
あと、バリーのおばさま(ジョゼフィンおばさま)は、あの気難しい感じ(そしてたぶん理屈屋で頑固そう)だからこそ、真逆のアンの自由な表現に感心できたんじゃないかなとも思うので
これらは、原作のほうが好きかも。
総じて、この作品は、原作に比べてアンの美点を「賢さ」に置いてるように感じる。
火事の時の機転の利かせ方とか(そういう知識があり、冷静に判断できるのすごい)
シーズン2でのことだけど、ある事件を解決するときの観察の鋭さとか(というかあんなに観察力も推理?力もあるのに、人の恋路に勝手に口?出したりと、年齢設定がよくわからんw)
それ以外でも、ちょこちょこ、アンが他のひとより賢い、という描写を散らしていますね。
(原作は子供らしい自由な発想力とか、独特の表現力とかを美点としていたし、そこに大人が感化される⦅だって大人には決して持ちえないものだから⦆というようにみえるんだけど…)
賢さ、は、分かりやすい美点で
たしかに原作でもアンは賢いんだけど、その表現は、学年で一位だったとかそういう書き方でしかない。
最も美点とされたのはそっちじゃなく、いくつかの良い所の付け足しという感じの一つ。(だって美人さだって持ってるからね彼女。あと申し分のないボーイフレンドな)
それでいいのかなあと思ったりはしましたが、まあ、途中で見るのやめたのでw
いやーーー
夢中で見てましたシーズン1は。
さっきシーズン2の4話目を見て、痛々しすぎてリタイヤしましたwwwww(早っ)
*****(以下、否定的な意見多めです)
元々、アン自身は好きじゃないと何度も書いてますが
何がいやって、こういう痛々しさなんです。ロマンチック!みたいなものに全振りする感じw
今回のところでいうと、「この人とこの人は好きあってるはず!」「くっつけてあげなきゃ!」みたいなやつ。
原作にない話のこれがいちばん痛々しくて、マジで引いたwww
私は、「おしゃれや見た目」「恋」を一番にする価値観が大っ嫌いで
だからそもそもアンが好きになれなかったのに
(なのに大人になって好きになったのは、マリラの描写に共感できたからです)
そして原作を気に入ってからは、そのへんは飲み込んで見ているつもりだったんですが
相変わらずというか、そこを膨らますんだ…みたいな。
女子ってそういうの好きだよね…と半ば軽蔑的に感じていて。
軽蔑的って良くないな。でも心情的にはそんな感じでした。今は、娘を育てたのもあるのか、まあやっぱだいたいはそうか~~~まあそういうもんだよな^^;くらいになってはいるんだけど…。
シーズン2ではマリラもちょっと意識したり、マシューも、
まあほら、昔好きな人がいたんだよね。くらいなことは、特にマリラは原作にちゃんと書いてるし、おかしいことじゃないんだけど、
それになんていうか、何歳になっても恋心ってありますよね。というのは、まあそうなんだろうし、否定することではないんだろうなっていうのは、分かるん、です、けども。
でもさあ・・・・・・
だからってさあ・・・
「みんな」そうでなくてもいいんじゃね?????
マシューに好きな人が、別にいなくてもいいんじゃね…???
昔そうだったとして、今でもそうとか、語る必要ってある???
なんでだろ、みんな、恋っていくつになっても「していいんだよね」って、まあ肯定的で悪いことじゃないけど
「みんなするもんだよ」っていう感じに見えて、
もうこの感じ10代くらいからず―――ッとあって、ずーーーーっとそれに嫌悪してきてるのに、こんな年になってもまだ言われ続ける、みたいなの、
地獄なの???ていうか
私は見たくないんだよね!!!!!!
わたしみたく、そういうの興味ない人もいますよねーって、一人でいいからほしかったわwwwwwwww ジェンダーとか恋愛の自由っていうんならそういうの「無いのも自由」にしてくれよ!!!
嫌悪感ひどくてキモいまできてる。
現代的なテーマ、なのかもしれないけど
個人的には、いまだにこういうのから離れられないのかな…とうんざりさせられました。
他のレビューにもあるんですが
この『アンという名の少女』はジェンダーの問題や女性の社会進出の問題とかもけっこうぶっこんでて…。
ジェンダー…あーいろんな人がいるよ、ていうのは事実だし、大事なことなんだけど
「女に関するあれこれ」とか興味なさ過ぎてーーー
ていうか嫌いでwwwwごめんけどwwww
「女は…」と主語がつきそうなものが全体的に好きじゃないんですごめんね。
偏見も大いにあるとは思うんだけど
私の問題でもないのでそもそも興味が強くないところに、「正しさ」を前に出してぐいぐい押し付けられてるような感じがして嫌です。個人的に。
私そういうの見たくて時間費やしてるわけじゃないんで。
あの金の問題も
バリー家の夫婦関係を掘り下げてるんだと思うけど
まあべつにいいけどね、そういう夫婦があっても。ちゃんと、対等に、「対話」しようよ、っていう展開私は好きではあるんだけどね。
夫の影が薄い家とかがあったっていいし、
「夫婦になっても仲いい」=いちゃいちゃしてる、みたいな家庭だけが正解じゃあないでしょうがと思いますけどね。
まあそこは別にいいです(けど思ったので残しておきますね)。
***
というかんじで。
シーズン1は、何の批判もなしに受け入れられすぎなアンにいろんな試練を与えて、受け入れられる理由付けをもっと丁寧に描いたなあと好感を持てましたが、
シーズン2は、アンの物語の中で私が最も苦手な、「女性らしさ」や「ロマンス」が強調されているので、
リタイアさせていただきます…。
役者さんはどの人も抜群に原作のイメージに近くて素敵でした。
ダイアナの美しさかわいらしさもすごい。好き。まったく雰囲気が違うふたりでとってもよきでした。
いまアニメでやってる?アンをちらっと見たら、「アンらしさ」が見えなくて、ちょっと心配になりました…。まあ、ちゃんと見てないからわかんないですが^^