「そこに書いてあるのに、なんで読まないの??」
みたいな注意を(私に向けたものも、そうでないのも)聞くたび、
「なんで、『書いてあれば読むものだ』と思ってるの????」
とおもってきたわけですが
絶対に「人種」が違う、と感じてきましたが
やっぱそうだよね。
書き文字がスラスラ読める人と、そうでない人がいるよね。
いや読もうと意識すれば読むよ、読めるよ。
だけど、「読もうと意識する」という、一段階前の覚悟みたいなのが必要で
そんな、「呼吸するように自然に」は読めないんだよな。
「当然それができる」という人がけっこういるのにびっくりだったけど
(これ、こういう人々が「いったん文字にしてもらって」と言ってるのを聞くと、
私のような、文字で書かれたものをいったんイメージしないと入ってこない人間にとっては、イメージしたものをいったん文字に戻してそれをまたイメージ化する、ということにしかならないwので、すっごく意味不明で、意味不明過ぎて、だから、ああ、本当に「人種が違う」んだな。と感じます)
とりあえず
「張り紙してるのに聞いてくる」というイライラについて、そもそも「張り紙してればいい」ものじゃないっていうふうに、考えの根本を変えようよ。
たのむよ。そんなにたいへんなことなのか。
そういう人もいるんだよ……。しかも普通にいるんだよ…。
そういう人を「馬鹿なのか」みたいな見方しないでほしいな…。
(上述の通り、「人種が違う」のだと感じるので、こっちが劣ってるみたいな優劣の話にされるのがちょっとよく分からない)
小学校のPの時からずっと言ってるが
書き文字を読むのに「覚悟」の必要ない人は、「書いてるのに読まない」という悩み(と怒り)をずっと持ちながら、改善しようとしない。
いや、どうすればいいのか分からないのかもしれない。
個人的になっちゃうかもだが、対処法は
↓
・「文字を書きすぎない」これが最重要。
・記号とか象徴で、ぱっと見でわかるものがあるなら積極的に使う(でも使い過ぎたらダメ)
・大事なとこ「だけ」線を引くとか、太字・大文字にする。
・「文章で理解させよう」としない。(だらだら説明文を書かない)
→箇条書きとか、言いたいことを絞って、短くする。
・可能であれば「色を変える」。
小学校では面倒だっただろうけど改善してくれてすごく分かり易くなりました…。
それでも程度の差はあると思うので、全員をカバーは無理だとおもうので
質問を受けたり間違いが起ることはある、そのつもりでいたほうがいいかも…。
でもだいぶ減ると思うわけですよ。
なんでできるほうに合わせろって言われるんだろ、できないのに……とか思うんですよね。
まあ、どっちも「俺に合わせろ」て言ってるんだと思えば、これはしょうがないのかもだけど、
でも、結局、困るのは誰なんですか?という話で
困らない、イライラしない方向にしていければいいよね、できるだけ
ぜんぶはむりだよ。しょうがないよ。
閑話休題(笑)
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この流れでディスレクシアについてのサイトにたどり着いていくつか読んでたんですが
(上のような状態のひとがディスレクシアと言われるわけではないとおもうんだけども)
読字障害と言われるような状態でも、
「読んでいれば読めるようになる」
ということが言われてるんですね。
これはこれからそうした個人を育てようとする人、自分がそうでどうにか改善したいと思っている人にはとてもいい言葉、いや事実なんだと思うんです。
が、
そもそも「もともとするする読むのに何らかの障りがある」
という状態が、先にあって、
それがないひととは違うところからスタートしている、ということ。
と、
これは自分に照らしての想像なんだけど
ほぼふつうに読めるようになる、としても、精神的な「引っ掛かり」というか、
読む前にある障りのようなものは、消えないんじゃないか、という気がいていて
そうしたことから
「訓練したら誰でも読めるようになる」というのを
特に先に書いたような、「引っ掛かりなく読める人」が、言ってしまうということに、
すごく抵抗を感じていたりして……。
生まれつき文字を読める人はいない、
だから「訓練」でどうとでもなる、という考えは、
「頑張ればみんな同じようにできる」という、一見差別のない平等な目で見た、良いことのようだけども、
逆に言うと、「できていない人は訓練していない=努力不足だ」と言っていることにもなるわけだし、
なにより、
「障り」を感じている(しかもおそらくこれは解消されない)という事実をあまりにも軽視しているなと感じる。
わたしなんかこの「障り」を感じることがすごく多いので
(ただLDではないのかもですが)
これに限らず
「努力すれば誰でもできる」という言論が苦手ですね。
確かに「表面上は」同じように「できる」のかもしれない
けど
内面の苦痛感とか、堪えなきゃいけないような感覚みたいなものを
あまりにも「無いこと」にされてるなっていうか。
まあその感覚も強弱それぞれ違うんでしょうが
でもだからこそ
「頑張ればできる」、
「できない=頑張ってない」
(これは直接言わなくても、上を主張すれば同時に主張しているのと同じであると感じる)
という理論はもうほんと、あんまりにも表面的だし、誤解をうむなあという気持ちになって
すっごくもやっとしちゃうなあ…という話。