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ひとりごと

無題

メモ

 A:エジプトの宗教思想の特徴
 B:同時期の他文明との違い

 みたいなものをもうちょっとはっきりさせたいと思ってる。

 深く厳密には専門家がいっぱいやってると思うので(自分の手に負える気もしないし)、そうではなく、
 一般向けの導入。
 あるいは専門の道を進むにしろ、ちょっとかじるにしろ、
 初心者のつかみみたいなので説明できるようになりたいというか、そういうのがあるべきだと思ってる。

 たとえば、分かり易い例でいうと
 「古代エジプトの神々は動物頭の神が多い
というのがあるけど、
 それだけだと、実際にそういう姿をした神様がいると信じられていた、と思われがちで。
(かなり後代とか、庶民の中では実際に思ってた可能性はあると思うけど、そのへんはおいときたい)
(これがリアルにそういう見た目だと考えてネタにされがちなのが、もうなんかいい加減いいだろって感じでそれをどうにかしたいという気落ちがあるw)
 まず、古代エジプト人が、基本的に「具体的な例を複数使って、説明したいものを浮かび上がらせる」傾向があったということを、つかんでおかないといけないというか。少なくとも宗教思想、権威的なものについては。
 直接ふれることをよしとしなかったとか、重ねることで重厚感(権威)を創出したとかかもだけど。
 (今の大半の人の感覚では、「見えたものをリアルにとらえる」ことが主流になってると思うので、発想を転換させないと、まともに見れないと思うのよ。すごく)
(ゲームや漫画でネタにするのは、それはそれで。別物なので。ただ事実と違うということがもうちょっと知られていいと思ってる)

 いやこの部分すごく大事だと思って
 基礎部分で第一にここをまず説明しないと何も始まらないというか、
 これ、
(1)エジプト美術を見る時にも、
(2)ちょっとした碑文を読む時にも、
ちょっと深入りして(3)神話の描写や葬祭文書読む時にも必要なはず。

 まず
(1)エジプト美術を見る時
 これはよく言われてるけど、横向きが主流とか、上から見たのと横から見たのを掛け合わせて描いてるとか、手足の左右とかも厳密に描いてないことがあって、
 それって何でかって、それぞれを「記号」として扱ってるからなんだよね、みたいな。
 絵画じゃなくてイラストレーション。説明図なの。明確にそれを描く意図があり、その枠組みがある
 だから、絵のそのままではなく、どういう意図で描かれてるか、という見方をしないと意味がない。(枠組みを超えたものもたまにあるわけだけど)

 で、これが、神々の図像にも言えて、
 なんで動物の頭って、その神の性質を表すのに都合がいい「記号」だからなのよ。
 偉いひととして椅子に座らせるときは体を人間にした方がいいし、砂山から現れたりする自然の中の様子を表すときは動物のほうがインパクトあるとかだったり、その他大勢の神々と一緒に居たらぜんぶ人の姿で特徴とかどうでもいい。とか、
 同じ神さまでも、描く場面によって形が変わる。意図が変わるから。
 それができるのは、その姿が「事実そのもの」ではないからと言えるはず。実際には、それらのうちに「隠されて」いるから。そうしたものがそれぞれに「部分的に現れている」と考えられたから。だよね?
 そういう考えを持っていたらしいことは、神殿に置いてある神像への日々の儀式に唱える文言の中に、それっぽいのがあったような。つまり、日々神はこの神像に「宿る」という考え。これ自体ではない。
 まえにやった、ベネトレシュ・ステラのコンス神なんか分かり易いかも。神像がそこにあっても、「“ご神体はエジプトに帰ってしまった”ので、空っぽだ」というくだり。

 だから、
 例えばアヌビスの山犬だって、その神の特性を表すのに都合がいいから用いたわけで。
 神のもつ見えない力の現れの一つ、としての山犬、
 だから「山犬」という具体的な例をもって、アヌビス神というあいまいで目に見えないものを描く。みたいな
 そういう「感覚」だった、ということを知ったうえで、見ていかないと、ちゃんと見れないんじゃないかなっていう。

 そういうことを考えると、
 エジプトの神さまってもっと自由で、形が曖昧なものだと思う。
 だから「変身」していろんなところに紛れ込む、そういったお話をつくることができる。
(神話というのがそもそも、神聖なものを擬人化して分かり易くするためのもの、と言えるのかも)
 でも、それってけっこう、現代のうちらにも分かり易いことなのかなって。
 イメージするなら半獣かもだけど、実際に目の前にそうした「もの」として現れるわけではないんだよな、みたいな。
 それが、生きた宗教の中の、神というやつだよね…たぶん。

 

つぎに、
(2)ちょっとした碑文を読む時
 壁画とかに描かれた図の周りの、ちょっとした碑文を読もうとすると、
 王や神の「形容辞(エピセット)」みたいなものがほとんどだと気づくと思うんだけど、
 ああいうものの構造って、こんなに、あんなに、そんなにすごいです。みたいなことの羅列じゃん。
 ぴしゃっと一言で言えばいいのに、他の神もほぼ共有しているような「大いなる神」とか「天の主」とかをいちいち入れて、数増やすだけいいみたいな。
 これはフランソワ・ドマの「エジプトの神々」で読んだやつなんだけど、エジプトではそうやって、いくつもの、それに属するものを取り上げて並べて見せることで、重なる部分が強調される。
 そうやって、具体的な例をいくつもだして、そこから抽象的な性質を浮かび上がらそうとするところがある。
 ちょっとまどろっこしいけど、「権威があるもの」は簡単には表現できない、という感覚があったのかも、と思う。
 直接だとぶしつけ、みたいな感覚は、日本人だとちょっと分かると思うんだよね。
 加えて、「たくさん例を挙げて表現するほどいい」みたいな感覚があるんだ、ということが分かる。
 だから、文献とか読んでて、この文章はちょっと権威的だな、と思うものって、こういう、偉いものの描写の重なりがむちゃくちゃ多かったり、ちょっと遠回りな、詩的な言い回しをしているものだなって思うんだよ。これが古代エジプト人の文章上の権威のつけ方なのかなっていうか。(こういうのは研究者は分かってるやつで、つまり、経験値みたいなので知れるけど、他の文明と比較して知ろうとする人はほぼ原典読まないために分かり得ないので、説明できた方がいいと思う。というのは、ちゃんと比較するときに扱うものが民話と神話じゃダメじゃん、同じような物語だからって同等に扱うと間違うじゃん。こういう差があることをまず提示しないとお話にならないと思う)(だからぜんぶの原典読めは無理を言いすぎているという気持ちもあり)




そして最後、
(3)神話の描写や葬祭文書読む時
 ここまで考えて、もしかしたら(ということでここはチャレンジングな部分だけど)、
 同じ現象を複数の、別の神話でも表現してたり、
 神話同士で矛盾することについてが、これで説明できるような気がして。
 
 たとえば、日食とか現象は実際にあるもので、それを神々の物語として説明するとき、
 それぞれは解釈の一つであって、それが「事実そうである」ということではなかったのじゃないかっていうか、
 古代エジプト人て(少なくとも職業神官と言っていい高位のものは)神々やその力を「理解しえないもの」ととらえていて、だから上記の神の姿のように、神話も「(仮)」「って解釈すると分かり易いよね」程度の認識しかなく、(つまり物語やエピソードそのものにそこまで重点の置いていなくて)、
 事実を指し示すための具体例の一つずつに過ぎないというか、
 エピソードが多数あればあるほど重大というか
 だから創世神話でも、実際世界は創られたんだけど、混沌から生じる過程とかは厳密には分からないという自覚があって、分からないから「可能性」で「『神々という存在』を擬人化した説明」という具体例=物語=神話を複数提示したうえで、
 それらが指し示す「ヌンという混沌からすべてが生じた」という事実だけを重要視した、
 それを指し示せればいいので、矛盾があっても当然というか、どれも本当の事実ではないからというか分からないからというか、エピソードはたいした問題じゃないというか、
 そういう態度があったのかも。
 矛盾をそのままにしておく、というのは、それだけ「厳密な“真実”とはとらえていなかった」と言えると思うし。
 重要なところはビシッと一致させて、でも後はあいまいでいい。
 または、
 神々の関係に見られるように、それひとつが様々な性質を持つために、表現したいものに合わせて「一緒に描くものを変える」ことで浮かび上がらせる。みたいな。

 このあたりの「矛盾」は初心者がつまづき易いとこだと思うんだけど
 「スルーしていい設定」と「大事なとこ」が毎度違っているんだよね、ていうことでいいんじゃないか。

 

あと、
 ずっと、エジプトには英雄譚がないな、なんでだろう?と思ってたんだけ
(他の地域はどうかな?)
 物語が権威的でない=残ることがあまりない、となると、
 あったかもしれないが民話レベルで語られていた、
 逆に言うと、
 神話が王権神話に特化していたために、それらは権威付けがされており、英雄譚はそれに入らなかった
 エピソードそのものをあまり重視しないので、英雄譚を必要としなかった(少なくとも思想の世界では)
 ということなのかなー
 ここはよく分からない。他の地域にあったら考えないと
 メソポタミアにはあるんだよね。なんでだろ。
 その物語って、何を目的に語られたんだろ。
 もしかして神話と同等なら、神話自体もあまり権威がなかったかもしれないし…。
 英雄譚で語るべきものがある、語る必然性があるのかもしれない。でもそうだとしたら、「何」?


*****
で、
 A:エジプトの宗教思想の特徴
を、考えるとき、
 特に神話についてなんだけど、
 思ったより権威付けがされてないんじゃないか、というか
 神話そのものが思ったより重視されていなかった(事実というほど強くとらえられていなかった)可能性が考えられて
 (いや庶民にとっては事実なのかもだけど)
 生きた宗教ってそもそもそういうものなのかもしれないけど、
 「神話」は一般にも分かり易くするための、擬人化された具体例でしかなく、
 思想にとって重要なのはそのあとというか、
 思想を説明するために「物語」が用いられたにすぎず、神話は常に後付けなのではないか、というような気がしてきた次第。

 しらんけど

 
 うーん 『神話とは何か』を比較することで浮かび上がらせることができるかも?
 少なくとも、「“古代エジプトの”神話とは何か」、みたいなものは。
 ざっくり言うと、私が一番説明したいのはこれで、
 それを通してこそ、「なぜエジプト神話なのか」という自問にこたえられるのかも。
 ていうかそういう意味では、エジプト「神話」が好き、というよりも、
 それらに関係した宗教思想の、文献上での表現が、好きなんだと思う。
 それは、宗教ていうか哲学ともいえるもので
 自然や生死をどうとらえていたか、ということなんだよね。

 前から、エジプト神話というか、エジプトの宗教思想をやることは、「生涯学習」になる、と考えているんだけど、それはつまりそういうこと。
 大人になって、生きる意味や生死のことに思い至るようになった時、自分の考えを立たせるために参考にする古典の一つというか。
 ギリシア哲学も、仏教も、そういう視点では同じ位置にあると思う、そういう。

 年とるとそういう芯をひとつ取っておかないと、不安になるものだと思うので。
 逆に言うと、そういう芯があれば、生きるのにぶれなくてよいので、推しを取らなくても学んでいて損はないと思うよね。
 生きる考え方、正と死という「思想」を自分の中にどう持つかということ。
 現代的だなとおもう。一つの宗教という道筋が強制されないため、自由である代わりに、自分で探さなきゃいけないから。
 自由っていいけど、大変だよね。全部自分で見つけないといけないから。
 だから、こういうものが、必要になるよ。そうおもう
 

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