長いことかかっちゃったけど
文春文庫の松本侑子訳『赤毛のアン』やっと読み終えたんだよ。
註があれば後ろをめくるみたいにして読んできた。
これは本当、一度読んだ人向けだよね。
註に描かれた内容は、作品の内容や流れに関わる部分もあれば、まったく関係ない(よくそこまで調べたなあ、という内容)のこともあり、関わる部分でも、ネタバレになってることが何度かある。
はじめから註を見て読んでたら内容が頭に入らなそうだ。
でも二度目以降なら、あれってそういうことだったのか、がたくさん分かるので、楽しい。研究ノートみたいだ。エジプトの宗教文献の解説読んでるみたいだよ。こんな意図があるなんて気づかないよねみたいな。いやあおもしろかったです。
全体的に村岡花子訳と印象がそこまで変わらなかったかも(よかった…)。だけど、こんなの書いてたっけ…みたいなところもあり。特にマリラのキャラクターは、こっちのほうが柔らかく感じる。おもしろいね。ただ註を混ぜて読んできたせいか、説明的な感じに思うところも多かった。
いまはハイジ読みたくなって読んでる(笑)
この短いお話にいっぱい楽しみが詰まってるんだからすごいよねと思う。長い必要ってないんじゃないかみたいな(笑)。
どうしてどうしてってたくさん聞くようすをみて、むちゃくちゃ思い出されるあのアニメの主題歌。なるほど「口笛はなぜ、あの雲はなぜ、教えて、教えて」となるわけだ、よく考えてるよなあ~。
どちらも子供の頃は好きじゃなかったのに
子供ができると好きになれたのは、大人目線なら楽しめるからで…。
無邪気な子供、があんま好きじゃなかったのかも。無邪気が許されてることが癪に障ったのかも。しらんけど。(大人になると、その「無邪気さを許せる大人」の様子に安心するというか。それは理想なのよね……できんけど)
こういう話を子供の頃に楽しめる感性を、私は持ってなかったんだな、というか。
子供の時に読んでいれば、とは思わないんだよね。受け入れられないと思う。ていうかそうだったし。
受け入れられるってすごいことだよなとよく思うのね
受け入れるべきとは言うけど、心が拒否してるものを入れることなんて無理なのよ。
できないとなると、もうどうしようもないと思うのよね。
そんなことはないと思えるのは羨ましいことだなというか。
そういう人でないと成功はしないんだろうなあとしみじみ思ってる。
まあ、なんでも受け入れて節操もこだわりもねえなとか、思ってましたけど(笑)
そんなこだわりなんか、要らないんだと。指摘があって、まったくその通りで。
たくさん受け入れて、自由に態度を変えられる方が、何倍も柔軟で良いことなんだなって。いまはわかるよ。
でも、言いたいのは、
そういうこだわりって、自分で作ってるというよりは
そう「なってしまう」、どうしようもないことがほとんどだということ。
しかしこの二人の子供、アンとハイジは
どっちも「賢い子」なんだよねえ。
賢くなければやれないんなら
わたしなんか無理だし、やっぱ無理な人は無理なのよねえと思う。
環境が違えば? その「良さ」を見抜ければ?
そう、それを見抜く、もしくは邪魔しない、ような大人の間で伸び伸びと育って、才能を開花させるのね。
子供の頃、その視点で読めば心地よかったんだろうか?
いやー。よくわからん。人気があるのってなんでなん?自分が子供の頃「そうだった」と思うからじゃないのかなあ。私は「そうじゃなかった(と自分では思ってる)」から、拒絶感があった。
いまはだから
大人側から見ると、そうして子供の「良さ」を引き出したり、邪魔せず受け入れたりできてる大人たちに、心地よさを感じて見れるわけだけど
だからって自分ができてるかというと(笑)。
アンもハイジも
賢いから愛されたんじゃないのか。
そうおもうことが、ある。
結局は大人の干渉や態度よりも、そのまえに
子供それ自身の存在、その印象とか相性というのが、どうしてもある
大人の態度を引き出す子供の存在そのものが問題の一つにあるというわけ。
それは自分がはっきり感じたことなので
言いにくいところかもしれないけどだからこそ事実だとおもうので
そういうところからもう「運」なんだみたいな。
育ての親が違えばより良くなるのかなと
産んだ後からよく思う話。あるある。
これらの物語って
子供を幸せにするのが実の親じゃないよね。
そこがまた、いいように見えるのかもな