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ひとりごと

みつかったよ

ペピ1世のP471、メルエンラーのM350(ともにPT523)

 はああ。もうええやろ…。
「あなたの目、ホルスの左の(目)に立ち上がる。それによって神々の言葉が聞かれるから」かな・・・
 アレンとフォークナーの訳にあまり差がないとこだった(アレンは相変わらず「東の」と訳している)

 上に「太陽の目」もあって、太陽の目として天へ昇る、ということなんだけど…。
 うーん。
 ここはだから、故王が太陽の船として天に昇る、太陽扱いなんだけど、続けてホルスの目は「左(東)の」なんだよね…。同じものとされてるとまでは言えないけど、対の表現でもないし似たような事を言ってると思うよねえ。

 こうしてみると
 ホルスの左目は「回復した」ために「再び(東から)昇るもの」と考えると
 東=左 でもおかしくないのかも…。月だって東から昇るからな。
 右はなんでやねんと思うけども。でも前から言ってるけど、ホルスの「右(西)目」とわざわざ単体で言うことは少なそう。左がまずあって、その対で右と言うことはあってもだよ。いや分からんけど今のとこの印象では…。

 ざっとしか見てないけど、
 ひとつ前の記事でも言ったとおり、
 ・ホルスの目は魔力を持っていて、神のもので、それを持つことで死んだ身体が元に戻るし、神の仲間と認められる。
 ・それはセトに傷つけられて(セトは代わりに睾丸を傷つけられてる)、ホルスはそれを取り返し、健全な状態(wDA)に戻った。
 ・それはオシリス≒死者に渡されるもの

 という感じのことが、「ホルスの目」という単語に続けてくりかえし書かれてるなあという感じ。
 ホルスとセトの争いと、それによってホルスの目が欠けて、しかし取り戻す、という思想は確実にピラミッド以前からあるよね。
 そしておそらく、その「ホルスの目」こそが、王の死後の復活を保証していた。
 それがピラミッド時代少し経つと、オシリスが台頭してきて
 オシリスの存在そのものが王の死後の復活を保証する。
 それでも、その再生の根拠として、ホルス神からオシリス(故王)へと「ホルスの目」が贈られる。
 というかんじかなー。

 太陽(ラー)の目、と言うときはだいぶ性質が違うようすで
 女神のこともあるけど、かなり、太陽の船と同一視してることが多いみたい。
 まあ太陽そのものが目だ、という感じはあるみたいで。光っとけば目なのかくらいのさ。

 昨日みつけたハトホルに言及してる部分がシリウスと関わってるのか気になるところ―…。

**

 さてさて
 他に面白いというかネタとしてひとが好きそうなものを見つけたので紹介しとく

Allen2005 "The Ancient Egyptian Pyramid Texts" p146 より
 P396(PT501c)
 Horus transported his semen into Seth's anus, Seth transported his semen into Horus's anus.
 ちょっとびっくりした。
 あと元のエジ語が転写すら見つけられないのであれなんですが。
 レタスにかけて食べさせるよりこっちのが直接的ですね ていうかこの時代にすでにこういう描写あったんだな。
 でもアレンの註には、
 こういう表現は、お互いが支配する側とされる側になって互いに傷ついた、みたいな意味を持つんだよ・・・
 って書いてたよ。なるほど。

 たしかにPTざっと見てると、ホルスの目がセトによって傷付けられた、というとき、それが死者(故王)と同一視されてなければ、同時にセトも睾丸を傷つけられたと対でまず表現されるもんな。お互い様なんだよ感。まあホルスのは元に戻るんだけど…。
 本当こう、セトはオシリスを殺したしホルスの目を欠いたけど、それでも敵というよりは偉大なものの一柱なんだよなあPTでの扱い。

 PT以前、オシリス以前のホルスとセトの争いを知りたいよね。
 第二王朝で何かあったのかとかも…。関係ないとは言えないでしょーただはっきり言えることが何もないっていう><あああ

 セトが敵対する以前からホルスは片目が欠けて戻ってると思うし、
 それが「さまよう目」としてラーの目の神話、遠方の女神といろんな形になって後に伝わってる感じがするんだよ。しらんけど。

 勝手に眼がどっか行っちゃった。よりも、敵に傷つけられて無くなった!のほうが劇的で「物語」らしいし、
 だんだん、そういう「物語の面白さ」みたいなものを大事にしていく、のか、
 もしくはそういう過渡期にあったというよりも、面白さより神秘的な感じのほうがエジプト人的に好きだったのか……
 英雄物語みたいな「お話として“読める”」ものがあまり出てこなかったのはなぜだろうというのも気になってる。
 文字が娯楽寄りになってなかった可能性とかかな…。

 教科書用の「雄弁な農夫」の面白く無さすごいよね、ある意味面白いけど。物語としては全く流れてないからなw 言い回しが面白い。ウェンアメン旅行記もそうじゃないです?(あれは物語が流れてるけど、実録的なとこがあるし、でも焦点がどうも……セリフ回しとかやり取りにありそう)

 と思うとエジプト人が文学を作るときの視点って物語の流れよりもほのめかされる意味の深さとか表現の多様さとか、あるいは、そこに現れるその人の敬虔さ(神に対する態度とか神というものをどう表現するかみたいな)がすごい!みたいなのに価値を置いてたのかな? みたいにたまに思う…。

 そういう意味では、難破した水夫の話も面白いよね。神様は物を捧げられるよりもその名前が永らえることがまず大事なんだみたいな。名前が消えるともう存在できないんだみたいなね。
(実際には捧げものしないとダメな感じだったのに、文学では「そういうもの」だと表現してるのかな―みたいな。そういう視点もあるよねっていうか ? 神に限らず死者もだよね)

 言い回しが面白い。お話は別にそんな面白くない。と思うと、エジ語やらないとエジ文学の面白み分からん。みたいに思ってくる…><
 お話面白くないはまじで思ってる。別の魅力があるはずだ…。ていうかそもそも書いてる目的が違うかもっていう話よ…。

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