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ひとりごと

もうひとつ

最近ちょっと暇だと他に読むものないから(あと積んでたから)読んでたのは
 双子の話、天羽先生という双子研究の人の書いた、半分自(分の子)伝みたいなやつで
 いや双子かくために研究してるわけじゃないよw 遺伝の話から双子研究に行ってみたら突き当たったんだけど、これはいわゆる遺伝の性質を調べるための双子研究とはちょっと違う感じだった。
 ていうかたぶん何も知らないで双子研究て言われると、こっちの方を想像しそうなやつ。
 ご本人は、自分はミクロな研究をしていて、でも最近は双子研究というとマクロな視点でやるものだとそういうコトを言われてた気がする。

 この方のはつまり
 双子それぞれの性格の差とか、他の家の双子ちゃんとかの例を集めて、「双子のきょうだい」というものが普通の兄弟とどこがどう違ってどういう傾向を持つのかを研究されてる感じ。

 前のはざっと読んだけど、これはぼちぼち読んでる。内容も緩いので(とは言うけどさっき感想書いた本のほうがもっと主観で緩かった)。
 双子って特に一卵性は遺伝子が全く同じというけど(ご自身のお子さんも一卵性)、こんなに違うんだよ。という話が主になってて、
 遺伝子の影響を見るために双子を見てる安藤先生とはほんと真逆のアプローチで、すっごく母親目線というか、俗っぽい感じもしちゃうんだけど(とはいえ本当に自分が双子ちゃんの親だったら、安藤先生の研究より天羽先生の研究のほうが確実に役に立ちそう)。

 ていうか素人の感想だけど
 安藤先生がアレだけ、一卵性の双子はやはり遺伝子が同じだから。みたいに言うのに対して、天羽先生は、なんで遺伝子が同じはずの一卵性の双子がこんな違うの。って言ってるわけで、
 まったく真逆の感想がどうして出るのかと思ったりするんだけど。
 とくに、「性格」について、そこが疑問すぎたわけね。
 同じ遺伝子持って同じような環境に居れば、性格も同じになるし、少なくとも得意不得意は同じになりそうなものじゃないか。
 でも、実際は、特に「得意なこと」がそっくり被ることが「まずない」ということらしいの。

 で、ここまで読んできてやっと気づいたのは、
 どうも、「一緒にいる」からこそ、「同じになろうとしない」ところがありそうだなということ。
 
 双子じゃない兄弟でも分かる。
 兄弟が(自分の場合妹が)、あれが好き、と言ったり、何かに秀でたりすると、私なんか確実にそれを捨てるもんね。あまり執着が無ければなおさら。
 どちらかが自分は「こうだ」と色付けしたら、同じ色はつけたくない、と思うらしいということ。それはもう、人として。

 だから、
 安藤先生がやるような(国際的にされてる)双子研究では、たとえば一卵性の双子なのに養子に出されたりして環境が変わった「のに」、久々に会うとそれまでのいきさつがそっくり。みたいになる、のは、
 むしろ、「同じところにいなかった」ために、相手に影響されず自分を出せた結果なのかな。
 みたいに勝手にしっくりきているところ(いやだってどうしてか長いこと不思議だったんだもの)。

 性格が遺伝子だけでは説明がつかないのだったらどう考えればいいのか。と思っていたけど、
 まあ実際遺伝子だけでぜんぶ説明はつかないけど、
 どっちかって言うと「生まれつき」だということがあるのかないのか、あるとしてどれだけあるのか、が気になるだけなのでw

 環境の影響があるとして、やっぱ「彼が右にいて、だから左に立ってる自分」という、たったそれだけのことが影響してくるのだということは、よくわかったよね。

 よく、生育環境のこととかを「言い訳にするな」という言い方があるけど
 そっちの言い訳にしないならなおさら、自分にはどうしようもないよねwww

****


 あっなんかさっきの本のやつ(牧師さんのやつね)
 なんかいいことかいてたような。
 そうでもこれはwebでも見れるよ、私ここがいいなと思って本を欲しくなったんだから。


https://bunshun.jp/articles/-/45868?page=2

 ありのままはダメだと。
 でも「甘ったれるな」という意味ではない。

 ここがすごく気になったんだよね。
 ありのまま、でいいわけがない、と言われたことがあるけど、それは「甘ったれるな」という意味だったと思うからさ……。

 ここでの意味は
「あなたが思う『ありのまま』は、本当にあなたの『ありのまま』なのですか??」
 ということだ、というのがよかったよ。
(一番いいことは本を読む前に読んでたわ…)

 私も「私自身」の「自然」というのがものすごく大事な人間で
 そこをしかしよく批判されてきたので
 つまり「私」というものはないのに、それにこだわるのはおかしいとかそういう感じで。
 そう思いたい人がいるのだというのは分かるけど、私はそれではしっくりこなかったんだよね。

 沼田牧師も、つかみどころがない、その時々で決めてるものが、「私」かも、みたいな言い方をしてるけど…
 それ自体はそれでいいんだけど、たぶんでもその時その時で変わるとしても、その瞬間の私にとってはそれこそが私だ、というのは確かにあるし、
 また、薬を飲んで自分のできることできないことが変わってしまった人が、「私」という連続性を失ったみたいに思った、あれの例でも分かるように、
 たとえ、その時その時思う自分の「私」像が、細かな部分で一貫して同じではなかったとしても、ある程度の同一性を保持していなければ、同じ「私」とは言えないというか、
 本当に何も一貫性なくなってしまうと、「私」などない、なんて言ってすましておれない大変な事態になると思うので
 (言ってることの程度がそれぞれ違うのだろうけど)
 やっぱある程度の同一性を保持する、という意味での「私」は、あるし、無いとやばい。と思う。

 仏教とか、日本人の多くがそういうものをあまり意識しないもしくは「しない方がいい」と思ってるのは
 他者志向性が高いし、そういう傾向を大事にしてる部分があるからかなあとか漠然と思う。
 他者志向(笑) とか言ってる私も、日本人らしく、結局その方向が強くはあるんだよね。もっと訓練された人たちよりは少ないだけで。

 あれ話が飛んじゃったな。

 でも「あなたおもうの『ありのまま』は、本当にあなたのありのままなのですか?」という問いは、いいよね……。
 認知のゆがみがあるでしょう、という意味だよね……。


 さっき書いた記事の中のマレのことを思うのは
 それが、本当に「歪み」なのか、元々「分からない」のか、分からない。ということなんだよね


 私はマレのように人を殺したらいけないことが分からない、というわけじゃないけど
 ひとを傷つけるときの「しちゃいけない」の意識が、理解できないことがある。
 わたしだってわざと傷付けようとしてすることは(喧嘩の時くらいしか)ないけど(まあつまり場合によってあるんだけどw)、
 こうすると傷つく、というのが分からないことがある。
 説明されても分からないことがある。ていうか何でそんな脅迫的に、傷つけることを避けようとするのかが分からないみたいになることがある。
 マジでわからん…。
 何か常識みたいなものがあって、ちょうどその部分がまだつかめてないらしい、という感想しか持てん。
 たくさんあると思うんだよね。
 他の文化では通用しない常識みたいなの。
 それはつまり、感覚では理解できないことで、習慣づかないと分からない。そしてそれはたぶん、理屈じゃないんじゃないか。
 その職場での常識とか、外から見たらそんなの分かるわけないけど、うちにずっといると、当たり前すぎてわからない方がおかしい。
 そういうことがいっぱいあるきがする。
 でも誰も共感してくれないので、私がおかしいのかもしれない。という感じ。
(正直私がおかしいとはあまり思ってないんだけど。気持ちが元気な時はねw)

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