悪いところを直す、じゃなくて
いいところを伸ばす。
のほうが、断然好きだよねー。
この子はどうも集中力がない。といって
集中力がつく!とうたわれてる玩具を与えたりするの
どうかなって感じなのは
そういう玩具は「集中力が必要とされる玩具」であって
集中力が求められる=使えば集中力がつく、はあまりに安易というか
結局そういうのは、集中力がない子は楽しめない、集中力がある子しか楽しめない。
つまり、それで遊べる子は集中力がある子だ、ということに過ぎない
のじゃないかとか思うんですよね
まあだから使わないんですよ。
のびるって言うから与えたら、使わない。使えないというか。
求められる能力が足りないから、楽しくないんですよね。
結果、「あれを使わなかったから集中力がつかなかった」みたいになる
ああいう玩具は、「それを持ってる」「得意」な子の、その部分を、伸ばすためにあると考えたほうがいいよね!
そういう意味では意味がある玩具ですよね。大いに活用したいよね。
ひねくれてるのでそういう考えしかできずw
でもあるいみそうですよね
できないところを補うことに、意味がないとは言わない。
でも、それって自分(の気持ち)を削ることだから。
はじめから「修正」でいくと、削って削って、気力がなくなって、
もう何もできなくなるだけだから。
こういうことになりがちだと思う
修正する部分の、3倍は、できる(とおもえる)ことがないといけない。
できる、を作った後でないと、修正なんてできないよ。って思うですよ。
問題は、できるをどう作るか。ですよね。
むっちゃむずかしい。
その子のいいとこ(性質)って、どうやってさがせるだろ。
そういうことをできる先生が、すごい先生なのだよなあ。
できない、を超えることも大事と思う。
超えられた時はすごく嬉しいだろうし、自信もつくだろう。
これはストレスも一緒でさ
自分を削るもの、に、まず耐えられるだけのものが自分にあるか。
その上で、克服するまで走り続ける体力を蓄えられているか。
そういうのなしに
ただ「問題点を修正」ばっかり、しようとしたら
自分が削られて、生きる気力がなくなるだけだよなあ。
やだよなそういうの。やだやだ。
***
とかそういうことをかんがえつつ
うちのお話の最後の展開で
ラアの行動だけど
あれ私の中でものすごく「気持ちいい」最後なんだけど
人に見せるから、普通の人がどう捉えるか目線で書かないといけないと思って
修正した結果ああいう感じ。
でもよく考えるとやっぱ、
気持ちいいってお前はそうかもだけど、ダメじゃん!
て話じゃないですか。
ここの「だめじゃん」の部分が、なかなかこう、理解できなかったんですよね。
表面的にはダメと言うのは分かるんだけど(反対の立場なら殺されるから嫌だとおもうと)
できなかったって過去形で言ったけど正直まだよくわからん。
いろいろな犯罪を見て、え、これ一緒じゃね?これと一緒…だったらやばい。みたいにおもったり
自分の気持ちいいのために犠牲を強いる。やばいよな。
でも実際すっごい気持ちよくない? みんなそうしたいって思わない?私はおもう。
本当に少しでもそう思ったりしないって言うなら、まあ私がおかしいというのは認めよう(笑)。
・・・いやちがうんだよ
そのあたり描写するために気持ち掘ってると、
怒りみたいなものが根底にあるらしい。と感じて
それが何かっつうと
(書いたつもりだけど)
「直すべき」「正すべき」「修正すべき」
みたいな圧力なんだよなあ、みたいな。
ラアは反対側に振れちゃっただけなのか。
と、自分でなんか納得してしまった話。
それも、
修正を強いてくるのは、
周りのみんなの声だと感じるけど
自分自身だよね…。
マジでまわり気にしてなかったらそういう「怒り」的な感情湧いて出ない。
よくないんだというのが分かる、からこそ、
だけどもういいやって捨てる感じになる。
そうするには強い反発力がいるから、反対に振れちゃうのかなあ
とか思った話だよ
たぶんね・・・。