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ひとりごと

文春文庫版のアンを読んでみてる

うん
 松本有子さんの訳のやつを
 なんか註が多くて説明がいっぱいだというから。

 すごいよこの註。
 気にもしてなかったとこまでこまごまと。名前のこととか何々系とか大事なのかよくわからんけど深く読み解きたければ大事なんだろうな的なことがたくさん。
 また、註入れてくれてないと気づかなかったよ的なこともあって、こういうのはありがたい。意外にいろんなとこに性格ほのめかしてんだな。そこまでされないでも伝わるとこがすごいけど。
(本当、研究されてるんだなあという感じで、マニアっぽいというか、お話を楽しむ以上に楽しみたい場合向けかなと。二冊目としては最適だと感じます。ここまで丁寧に調べて説明してくださるなんて……倍楽しめちゃう)

 で、
 そもそも何で他の訳を読もうとしたかって
 花岡訳はまずい、という話をどこかから聞きかじったからなんですよ。

 今回よくわかった。
 原文と違うんだわ。

 いや違うんだという話だった気がしたんだけどね。
 どう違うか分かった。

 アンの原文も著作権切れでnet上で確認できます。
https://kindredspaces.ca/islandora/object/lmmi%3A1373#page/14/mode/1up

 Oヘンリほど難しい感じじゃなかった…けどそんなスラスラ読めんよ。
(Oヘンリはね、訳文読みながら読もうとしても難しかったww)

 なんか、違うぞ。と思ったところを花岡訳で確認し、原文と見比べて、松本訳の正しさがよく分かるという感じ。
 まだはじめ数ページですが(しかし最近のやつ字が大きくてびっくり…逆にめんどく思えてたけど慣れた)(年とるとこっちのがよくなるだろう)。

 えーと
 具体的には
 マリラが「孤児でもこういう子は欲しくない」と言ったやつが、「くろんぼ」ではなくて、じつは「浮浪児」で、・・・そうすると「ロンドン育ちの」って前につくために一層、理由が全然違う響きになるじゃないすか。
 くろんぼ、なら、(ロンドン=故国、にいるわけだから、国が問題なわけではなく)見た目が問題なんだろうなあとおもう。
 けど、浮浪児、となると、むしろ故国=よく知ってる(実際には知らないかもだけど)身近なものだからこそ、よくない想像がすぐできてしまうので、いやだ、と言ったんだろうなと…。

 いや正直ここはどういう意味かよくわかんなくて何度か見直したよ。
 くろんぼのほうが分かりやすくはあるんだもんな。でもそうじゃないんだ。けっこういみがちがうよね。

 でも私その前のやつのほうが気になってて。

 つまり、レイチェルがマリラの家に入って行ったとき、家の東西の窓の、東の方に必ず座ってるというマリラなんだけど、その理由が、
 花岡版は「まぶしい日光を避けたがる」から、
 松本版は「照ったり陰ったりしてあてにならない」のがいやだから
なんだよ。
 前者は、マリラは目が疲れやすいというか問題を抱えてるらしいことが先を読むと分かるので、そういうコトかと普通に納得してたんだけど、
 後者の訳によると、「移り変わる(揺れ動く)」のがいや、何でも一つに決まってちゃんとしておくべきだという彼女の考え、性格を表現してる、と言うわけなの。

 描写の焦点から違うじゃないかあ。

 とりあえず原文を見てみると…(一瞬なんて書いてるのかよくわからん)(どっちの訳も読みやすい文に意訳し直されているために・・・)

Here sat Marilla Cuthbert, when she sat at all, always slightly distrustful of sunshine, whitch seemed to her too dancing and irresponsible a thing for a world whtch was meant to be taken seriously;
「マリラ・カスバートはここに座った、というのも、いつも日照に対してちょっと信頼できないとおもっているからで、それは真剣に受け止めるべき世界の出来事にしてはあまりに揺れ動きすぎて無責任であるからだった。」
が直訳かな…。原文のこねこねしい感じが好き!!!
(訳の仕方とかちゃんと習ったことないので間違ってるかもでゴメンナサイ)


 その他欠けてるところがあったりするらしいということですがこの先読んでみますね。


しかしですよ。
 そういう欠けや間違いを、残念に思うところはあるにしろ、
 やはり、花岡訳のほうが、読んでて「楽しい」んですよね。
 リズミカルなんだと思う。こねこねしさをうまく流してくれているというか。

あと、
 結局、まったく雰囲気の違う文になっちゃってると言うわけでもないので、
 花岡訳が独特すぎて、原文を無視しまくってるとまでは言えないんじゃないか、というのがここまでの印象。
 松本訳を読んで補いつつ、全体の流れは花岡訳で楽しみたいかもという感じです。


 訳文のリズムってすごいよなあ
 訳して意味が正確に伝わるだけ、じゃダメなんだなあ…。
 訳者の作家性(文章についての)みたいなのが、問われるんだろうなあ。みたいなことをしみじみ思った…。

 文章を書くって、ほんっとうに、むずかしいですね。


***

●レイチェル夫人が初めてアンを見に来るとき、アンがいないので先に自分がかかったインフルエンザについてあれこれ話すシーンで、

 村岡版は、マリラが「インフルエンザもなかなか捨てがたいところがあるに違いない」とおもう。
 松本版は、マリラが「インフルエンザにかかってもその埋め合わせはできたに違いない」とおもう。

 原文見ると、レイチェル夫人は
with such evident enjoyment(かなり明らかな楽しみをもって⦅説明した⦆)ので、
that Marilla thought even grippe must bring its compensations.マリラはインフルエンザもその代償をもたらしたようだ、と思った。

 村岡版のを読んで、大仰に話された内容をそのまま受け取って、インフル想像以上に大変なんだ、と思ったのかと…。
 でもこうして読むと別にそういう意味じゃなかったのかな。
 つまり、大変な目に遭ったようだけど、これだけ話しのネタになったんだから、インフルエンザもよかったんじゃない。というわけなんだよね……。
 これは私の読み取り力の問題かも><

 文で読むと大した違いはなさそうだけど
 私のイメージは、マリラが「真剣に、同情的に聞いてる」とおもっていたのが、「呆れかえって聞いてる」風に変わったので、全然違うじゃんと思ったww びっくりしたw

 どっちにしても原文のままでは訳さないんだな…。それじゃあ意味がないのか…?

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