文学って癒しなんだなってしみじみかんがえた。
拗れた人が出てきて、そして、その人を見つめる視点が、世間のように冷たくない、断罪したりしない、
違う視点から「仕方がなさ」を追うから
癒されるんだなあ…
テレビのドラマとかはその逆で
一般的に受け入れられるものを強調してみせるかんじなので
すごくもやもやしてしまうんだなあ…
もともと合わないと思ってたけどそういうとこなのかなあ…などと。
拗れた人を拗れたまま思いっきり強調してるやつが、好きじゃないみたいで
このストレスもっておけない。吐き出したい。
そういう視点は社会にあふれていて、もう十分なんだよ
同じように、ウワーこいつ悪い嫌い。とか思いたくないんだよ・・・
仕方がなさを出してくれよ!!!! あーもう!
**
そうそう
Oヘンリの『詩人と農夫』をよくたとえに出してしまうんだけど
この話って、
「本当のことを分かる人はほとんどいない」みたいな感じの皮肉だと思ってるんだよね。
ちょっと言い方が問題かもしれないけど、でも、
少なくとも、
真実は覆うことでこそ伝わるものだとかそういうポジティブな話じゃないと思う
というのは、お話の最後に主題を「詩を書かざるべきか」「農場に留まるべきか」て書いてあるくらいだから、
つまり、やっても無駄なんだよね。ていう話になってると思う。
いやそりゃ事実として、実際のものをそのまま描写するより、「万人が知る『それ』らしいもの」を描写したほうが伝わる、というのはあって、それが演出で、リアルや現実のものよりも演出の技巧のほうが大事って言うのはあると思う。
あるとおもうけど、お話の描き方からして、「リアルのまんまじゃダメなんだよね、ちゃんと伝わるようにしなきゃ」というよりも、「リアルに描いたところでわからんやつにはそうと伝わんねえんだよ」と、こっちが強調されてると思う。
本物を知らない人には本物が目の前にあったって気づけないんだよって事。
(慣れた価値観でしか測れないから、)偽物を本物だと思ってしまうものなんだよって事。
そういうことってすごくよくあると思うから、そういうことを感じるたびに代名詞のように思い出す話。
裸の王様と近いイメージで読んでる。周りの価値観に流されてしまうもんなんだよねって言う。
わかるわけがないんだよなって、おもうこと。(自分だって分からんものは分からん)
そこからだだだっと他の作品の感想とか読んで(『1ドルの価値』の内容初めて理解したりして…w)
『20年後』とかね。あれもよく分からない感じだったから改めて考えたり。
『20年後』は、
いまのところは、「見た目が変わっても本質って変わらないんだよね」って話だと思ってて
つまりボブはジミーに気づかなかったんだよね、はじめ。だから見た目は変わったんだろう、けど、あの「義理堅い」「嘘つかない」ところが変わらない。そのくそまじめさが面白いっていう話だと思うんですよね。
彼は約束通りに来た(義理堅い、嘘つかない)。すぐに友人が今指名手配されてる男だと分かった、が、捕まえられなかった(義理堅い)。しかし警官なので放置できず、他の人に捕まえてもらった(嘘つかない)。
おもしろいよねえ。
よみがえった改心とかもだけど、
人の中に筋を通すのが心地よいですよねOヘンリ。
その、通った筋が、こっけいさを生み出すことがあるなって。
『運命の衝撃』なんかもそういう感じがして
つまり、人って想像できることに対しては順応できるけど、想像してないことってとにかく恐ろしいんだよね、たとえそれが良いことでも。っていう
こうすると本当に滑稽に映るけど、でも実際人間ってこういうもんじゃない?
ていう
本質をついてる(ちょっと大仰に)という感じが、魅力なんだろうなと思うんですよね。
そんなことある?と思わせながら、どこか説得力を感じたりする。
いい話もありますけどね、よく考えたら「そんなことある?」てなるよね。
ぎゃくに「なんで?」て思うような事も、よく考えたら人間らしいっていうか、本質をついてるなあと思えたりして
そういうとこが魅力ですよねえ…。
**
とかそういうかんじで
本質みたいなのを感じさせてほしいというか
そういうものを見たくて、そうじゃないものはギャグとかコメディーでないと見たくないかもみたいな。
きれいごとみたいなの好きじゃないし、筋はちゃんと通してほしいし、主張はしっかり立ててほしい。から
だからあんま楽しめないんだよなドラマ…
物語の緩急、感情の上下、メリハリ、次への引き、みたいなのばかり大事にされてる感じがして(実際、そういうことは大事なんだろうなとは思う!簡単じゃないと思うし…。ただ、)
話の中に一本筋を通すこと、始まってから終わるまでの大きな流れの形、そこで描くべきこと、みたいなのが、ないがしろにされてんなあみたいに思う。
展開が大事で、筋(ていうか、芯として通すべきもの)が大事にされない感。
まあ主張があったところで合わないと思ったらだめなんだからどうしようもないけど!
でもまあ、それがドラマなんだと思うし
そういうのも技が必要ですごいことなんだし
(私は筋が通ってることのほうに価値を見出すだけで)(なので、どんなに展開にびっくりさせられても筋が通ってないと納得できない許せない)
見て慰められるものをいくつか知っていれば、それだけで幸せかも。
**
さいきん子供も大きくなって、
そろそろ、大人の偶像みたいなやつが崩れてきてるなと感じています。
これが崩れることこそが、大人になるということだ、と私は思ったりしているので
大人側としてはとても痛い痛いところですが、崇拝に近いまなざしに罪悪感を覚えることもあったわけで
それでいいし、そうあるべきだとおもうわけです
そんないま思い浮かぶのが『だれが君を殺したのか』(コルシュノウ)の中で、主人公の父親が話す言葉。
たとえ自分の子供であっても、立ち入らせるつもりはないという感じの…
ああ、今調べてみたら、「傷つける権利はない」ですね
そういう言葉が、初読時に意味が分からないながらも響いていましたが
いま改めて思い起こされました。
大人とほぼ対等に立つ頃、子供は「上にあるはずのもの」がそうではないという「実態」に幻滅し、相手を強く否定しますよね。私もそうでした。
実際親としてこれはかなり痛いものです。大人、親と言ってもただの人、欠陥があることくらい自分でわかっているわけで。(分かってない場合もあって、そういう時は耐えられず激昂する事でしょうね…自分もやりそうだ)
その「自分は(当然)完璧ではない」「お前のもつ大人像は偶像である」ということを、毅然と言い放てるというのは、ちょっとカッコイイですね。
これは、数学の先生との話し合いでもあったと思いますが
「オトナ」が、子供、生徒など立場が下のものを、「対等に扱う」ということ。
相手を大人として尊重する、その意見を聞き、同時に、「きれいごとでない意見」つまり自身の汚さや弱みに向き合い認めること、ですね。
相当勇気がいりますが、必要なことだし、
それが、相手を対等に見る、子供を子供と扱わない、ということだ、と
なんかしみじみ思いましたね―最近。
それをされた覚えが一度あって、けっこうびっくりしましたね。
祖父にですが。
ずっと上からモノを言われるばかりで、反抗するしかなかったのに、意見を求められて、
ああ、もうそうなるのか、みたいな。
そうすると、反抗と違って、責任を持たないといけないから。
大人になる意識が作られて行くには、必要な過程なのかも。
いつまでも親が「子供は子供」てしてるのは良くないだろうなていうか。
まあでも徐々にで、まだ心配なとこは口出しつつ
認めることを認めて自信つけてもらわないと。
子供が生まれてしばらく
私は「親を演じなければならない」ということに気づいて(生まれてから気付いたんだよねえ)、愕然としたんですよね。
演じる、それって嘘と同じ。被り物と同じ。
ずっとそうしてきたという人は多いのかもしれないけど、私はそうじゃないから、
うまくできないでぐっちゃぐちゃだったよ。
でも親になるというのは、子供の偶像になるということなんだね。
私にはやっぱ向いてなかったかも。
もういまさらだし、どうしようもないんだけど。
うまくは当然できなかったんだけど
うまくできる人なんかいないだろうし
それにしてもちょっとアレだったと思うけどもね。そこはいまさら言ったところで。
いつも体当たりでするしかないし
でも家庭って怖いよねえ
この閉鎖空間で正義も悪も勝手に定められて
その環境で子どもは生きるしかないんだからさ…
でも人って格の差があると思ってて
大人より子供の格が高いこともあるから
そういうときはどうにかなるもんだよ
でも勘違いしちゃいけないのは、それは当たり前じゃない。
格の高い人間が格の低い人間の子供になるとは限らないのね
だから、そういう、「親がやばくてもちゃんと育つ例」をとりあげて、「だから自分の責任だ」とする論調はやばすぎるなと思ってる
ふつうはそうはならない
たいてい、親がやばかったら、やばい環境と価値観に染められて、
訂正する力は「普通は持てない」ものだから、人生詰むよね
これからどうなるかわかんないよ
常識が生まれつき万人に備わっていて
何をしなくても感覚でそれを選択できるものだ、と思ったら
大間違いだからね…
でも子供見てると思う
分かる子は、分かるんだなって…
教えなくてもわかる、「普通わかる」んだね。
ずっと言われてきたこと、本当なんだなって…
私はだから育てるのは楽なほうだったと思う
親が大変だったろうなと思うけどね
でもそれも、しょうがないじゃん…
運だよね