不登校についての記事を読んだ
学校に行かなくていいというのは(これまでいろんな記事が出てるお蔭で)難しくないけど、
そのせいで勉強が遅れることへの焦りはなかなか難しかったなとおもう。
やれるようになればできる。と言うのはそこそこ賢い子だよね…。
まあどっちにしろ一緒なのかも…。
この記事では
「『子どもは大人になるための準備の時代』ではない」
という指摘がぐっと来ました。
そう思ってたし言われ続けてきたけど
確かに子供のうちに頑張ってるのはただその時のためだった。
昨日しみじみ 子供のころが一番頑張ってたし大変だったと思った…。
時間ぜんぜんないし…学校部活帰って(塾があれば行って)飯食って寝る。以外ムリだろ。
なんでこんな頑張らせてんだろ的な。
まあできてて楽しいならいいけどな。
そうそうその
子供は大人になるための準備の時代じゃないってやつ
子供の時やっぱ自分も必死でその時その時の最善(と思ってた)の選択をしてきたわけじゃん
それがさ、結果的に「ちゃんとした大人になれてない」とかで失敗だったと言われたり
それが、自分自身の怠けとかそういうもののせいにされたり(幸せだったから問題だったように思わせたり、幸せな状態にあることが=甘え、のように言われたり)
そういうのが釈然としないというか(自分も気を付けよう)
正直怠けって言って実際ほんとうのいみで怠けるやつなんかいるのかなと思ったり
ふつうにそれなりに生きて、そんな楽しようとかできるのは頭がいい人くらいで、つまりそのために頭使ってる=努力だし、
どの道行くにしろ精いっぱいやってきてそうなっちゃうみたいなものしかないというか歪んでても自分で歪もうと思ってなる人いないっていうか
もう生まれたときからそういう危うさや傾向があるんじゃねみたいな考えにはなるんですよね。
かといってその危うさがそのまま出るものだ、って決定論で言う気はないんだけど
傾向がある以上はなりやすさはあるのだから、「普通に」育てたらだめなんだけどそういう発想にはならんのよねっていうか
まあ育てる側としては、正直ムリ。なんだけど
だからどうしようもないよなあとかおもう
私あのなんか一家殺人のやつ犯人が捕まったって知らなかったんだけど
動物虐待から殺人に行く道ほんとよく聞くしもう常識になってんのかと思ったらそれは海外の話で日本は違うのね。
いまだに「命を大切にする」みたいなポジティブ育成のことしか考えてないのがびっくり。いやそれはそれでええのかもだけど
たぶん命を粗末にしちゃう場合って、「他の命を大事に思ってない」とかより前に、自分に対しても間違いなく淡泊だし、
「大事じゃないからやる」というよりももっとこう、怒りの発散とかそういう形なんじゃないのかなみたいなのあるよね。よくわからんけど。
他を大事に思う余裕すらないというか もっと狭いんじゃないかと思うん。
弱いものに向かうのは当然自分が反撃でやられる心配がないからで
それを「ずるい」とか「弱い」「卑怯」とかそういう言葉で糾弾することあるけどすごくナンセンスに思えて…いや言いたくなるってのはあるんだろうけど
結局被害者側の立場からしか見てないしそうすると防げるものも防げんわなとか思ったり
被害者の眼でどんなに見てもたたいても、加害者はなくならないわけじゃん・・・てのは子供の虐待の時思ったよね。酷い子供が可哀そうとかどんなに言っても意味ないというかむしろ自分を責めてもっと加害が増えるだろうなみたいな。
ちょっとしたことでむちゃくちゃ頭くるみたいな人がいるんだと思ってて
そういうのってでも生まれつきな部分がかなり大きい気がするし
環境だけでそういう結果に結びつくわけじゃないにしろ
その環境というか接し方で変わる可能性もあると信じたくて
かといってじゃあ私ができるかというとごめんムリです。
ああ生まれたときから運だなあというかんじ。
それはどんな環境に生れ落ちるか以前に、どういう体(頭・性格)をもって生まれるかっていうやつで
まったくどうにもならないっていうことは少ないにしても(ないとは言い切れん…)、環境でどうにかというには無責任すぎるというか
難しいかそうでないかというのは確実にあるだろうなっていう
はあ。
本まだ最後まで読めてないけど
うち元々こういう感じで、生まれつき難しい人はいるとして、そういうどうにもならないところでたいてい犯罪は起きちゃうのに罰する権利があるのかとか
まあそういうルールを作って淘汰してくんだという話になるのかな
自分がされる側である可能性だってあったんだよね
でもそうじゃないから「そんな奴は早く殺せ」
もちろん自分が被害者にごく近ければ思うけどね、そしてその立場でそう思うことは責められてはならないと思うけどね
考えたってしょうがないけどね
うまれつき「ひとをころしたい」人なんているんだろうか
いるとして、その人はもう生まれつき生きる権利はないのか
そんなことをむだにかんがえてきました
いまんとこ
「人を殺したい」はあんまいないかもだけど、
切れやすい=加虐しがちということはけっこうあって
うまくしないとそうなっちゃうのかなというのと
結局そういう衝動が生まれつきでどうにもならなかったとき、私たちという「社会」はそれへの生きる権利を認めない(という形で淘汰しようとする)のだな、というとこに今来てます…。
生まれたときから運なのだなあ
という当たり前のことしか考えられないw