やー。
仕事暇すぎて何もしてないのに何で疲れるのか。
ところで最近読んでる本が面白いんだけど難しい。
『<わたし>はどこにあるのか』
ていうのなんだけど、えっ知りたいことが書いてあるの珍し――
でももう7年くらい前の本なので知ってる人は知ってそう―(笑)
とりあえずまだ半分行くか行かないかくらいなので…。
いまのとこ
脳の左半分のどこかに、意識にのぼる情報を「物語にしたい」衝動の起こる場所があって、
それが、「わたし」という物語を、都度作っている、というかんじなのかなーて。
やっぱ、意識では「常に統一された『私』という感覚がある」とかんじてるわけじゃないですか。私はそう感じてました。
だけど、脳全体を統括するようなものは、無い。という事実があって
これがまずちょっと衝撃ですよね。事実ってほんと想像を超えるよな。
「わたし」というのは、実は意識にのぼったこと=脳で処理された“結果”の情報いくつか、しかみてなくて、
それを勝手に組み合わせて(つじつまを合わせて)お話を作る。
その衝動が感じさせているものなんだというので合ってるかな。
はっきり言って半分読み進めるまでに、分からんとこがいっぱいあったので、怪しいんですけどw、
「わたし」というのが衝動からできてて、
その時見える情報「だけ」を突き合わせて「物語を作って」いて
だから、「わたし」が分かってる「わたし」は本当の私の一部でしかない、みたいな
(だから、自分のことは自分では分からないというのがその通りなんだなって分かったw)
ていうか、
私が私だと思ってるものは私の知らないたくさんの部分からなってる、っていうか
そう思うと「どうにもならないなあ」と感じていたのは当たり前なんだなというか…
私はね、もうね、その「脳が部分的な情報を勝手に組み合わせて作った適当な物語」=「私」。っていうので十分満足してて、
実際、そうやって作られた「私」が、身体とか、脳の別の部分を、適当に作った物語に合わせて(騙されてというか)動かしたり止めたりしちゃう、
そういう滑稽さをふくめて、ていうかその滑稽なありようこそが、「私」なんだ。みたいな感じで納得いくかもー。
私はこうだ、と(良くない方向で)信じること。
それを滑稽だと笑われることがある。私なんていないんだという言葉で。
でももう、その物語を作ってしまってるのが私自身なんだし
それ自体は私にどうにもできない部分だし
その「でっち上げ」に踊らされるにしろ、そうして生きることしかできないし、それが自然なありようなら。
「私」が「私」と思うところに従って生きるというのは、別におかしなことじゃないと思う。
ていうか
どうせ生きる意味なんかないんだから
自分の中で意味を見出した方が、なんか生きてる感じするし
生きてない感じをもって生きるよかそのほうが楽しいわけよ。
どういう形を「それ」とおもうかは
みんな脳の様子が違う以上はやっぱ同じじゃないんじゃない?
私は「私」に振り回される私自身が滑稽とは思わなくて
まあちょっと厄介なとこはあるけどさ
でも、自分の意志でどうにかなると信じて頑張ることだけが正解ではないと思う。
ある意味それも滑稽というか
いや別に笑うとこではなくてもなんていうの?一緒じゃん。
自分の意志、というものがそういう意味ではかなりあいまいだというのは面白いよね。
できる人ができて、できない人はできない。
そう思うから、という理由は全く馬鹿にならんというわけ。
だって「私」自体が、もう勝手に作り出したものなんだもんね。意志なんかでどうにかできるわけがない。また逆にだから意志でどうにかなることもあったりして。
それはいいんだけど
そうやって「自分」というものの本質が、「ある情報の辻褄を合わせて物語を作る衝動」であるというなら
たしかに
「ひとは物語を好む生き物」というのは、まったくそのとおりなのだなあ。と思ったよ。
物語がなきゃ生きられないよね。
意味をみつけないと。
それが衝動で、その衝動が私を作る。
いいなあ衝動って、そのどうしようもなさが好き。しっくり。