なんか手に入れた新書が難解すぎなんだけど、なんとなくちょっとわかったとこだけ、最近のあれこれとか創作とか絡めて考えたのをだらっとかく。
「閉じた私」と、「開いた私」って表現されてるんだけど、
つまりは、個人の私と、社会の私、というやつなんだと解釈し。
個人と社会っていうのは、バランスよく保つことが大事なんだけど、けっこう偏りやすいものだよね。
社会の私、は、人々の間にあって、他者がそこにあることが前提で、そのかかわりの中にある私、私はひとりではないってこと、人に助けらないで生きることがないということ、だし、
個の私、というのは、他者を前提にしないで、私一人の存在で成り立つもので、私自身が、表面的にどう対したかとは別に、事実として感じたこととか、(社会的には許されないことでも)事実として持っている欲求とかそういうやつかな。
うちなんかは社会の私というのがあんま好きじゃなくて(にしてはうまくやってます)、個人の私、というものにこだわりがあるんだけど、
個人の私、つまり「私」のうちに閉じることは、問題もあるわけで。
でもその「問題」が何かがよくわからないために、読んだりかいたりしてるわけですよっと。
(いや分かれよって感じですね、すみませんいろいろ分かってないです)
最近の出来事から、
「個」の私に閉じすぎることは、周りが見えなくなることで、自分が特別だと思いやすいことで(発達の段階で青年期はこれが社会性より大きく伸びるためにそういう思考を持ちやすい、そういう時期が誰でもあるということですが)、
独善的になること、そしてまわりを敵にまわして極端に走ることにつながるわけなんだなーと(今頃かよと自分でツッコミ)。
閉じているということは、自分の内心、心のうちとだけ会話してるってことなんだろうね。
閉じてると、周りと見えるものが違ってくるから、考えがずれてくる。
林檎だって、中から見れば白っぽい黄色かもだけど、たいていの人は外から見て「赤い」っていう。そういうズレが出てくると思う。それって、どっちも間違ってないんだけど、でも、林檎を「黄色っぽくて白い」って言ったらたぶん、笑われるよね。でも、事実だし、そこを笑うなんてと、本人は思う。自分が間違ってないのは確かなんだと。
そのとき、周りの方がおかしい。と考えると、独善的になって、まあなんかやらかしげかな。
それはでも、発達の段階で誰でもある。
けど、それが長く続いてしまった時、自己を閉じさせる理由がどこかにあるんだろうなって。そうおもうわけです。
なんで閉じてるかっていうと、不信、なんだなと。
(もしくは、もしかしたら、そうして外から見るのが難しい性質ということも、実際にはあるかもしれない、と思ってはいますが…)
なんで不信かというと、否定されるから。とおもうんだよねー。
簡単に言うと、周囲の人間との感覚の「ズレ」。
そのズレに対して、特に上の立場または大勢から、「おかしい」と言われるとね。
感覚に限らず、納得できない状況を強いられる、とかでも同じですが、
とにかく、自分自身の自然な在り方が脅かされるという感じ。自身の存在を含めた本質の否定(のように感じる何か)。
そのとき、
相手の言うことを信じて、自分をダメだと自分自身でも否定していく選択もあって、そうすると「個」がなくなって、「社会の私」を強く持つようになるのかな。周囲の目を強く意識して、そこに添うように注意して生きる、みたいな?
でも逆に、自分を信じ、それを否定する周りは信じない選択をすると、周りの意見や「目」を取り入れないようになって、どんどん周りとズレる。周りの気持ちとかもわからないし、そもそも(相手は間違ってるので)分かる必要もないと考える。
けどそれは自己防衛だよね。
攻撃は最大の防御的なw
そのまま叩かれて自分を潰すか、抵抗して自分を守るか、しかない。
そういう感じかなーっていう、想像ですけど。
自己を否定されたとき、
相手の言う通り、自分という軸を「間違い」側において、自分を否定していくか。
それとも、自分という軸を「正しい」側に置いて、相手側を間違いだと考え、不信を抱くか。
それは、元の性質の差として出るのかもしれない。
自罰か、他罰か。
そうした性質の差が、元々あるように思う。
なんか、ときどき、他罰傾向の人は甘やかされて育ったみたいな考えを見るけど、
たぶんそういうことじゃないよなって思うとこあって。ここの部分にはすごいモノ申したいわけですよ(笑)。
同じことをされても、人によって出方がぜんぜん違う、逆になっちゃうことさえある。
うちそういう、「生まれつきの傾向の差」みたいなのはすごい勝手に信じてるとこあるですね。今んとこね!
あとぜんぜん関係ないけど、甘えさせてもらって満ち足りてるのと違って、甘やかされてるのは結局虐待ですからね、だって全然本人のこと見てないもんね。
精神的な満たされ感があるかどうかで。
甘やかしの問題は、相手をひとりの人間として認めないというとこにあるでしょ、付属品か何かかみたいな。
ただ叱ったりというのとは違う方法でやってるというわけで、同じですよね。見た目分かりづらいあたり余計きついかも。本人が気づきにくそう。
反対側にいると、むこうが羨ましくなるのはうちもあるある……それで怒られたこともあるですね。
足して2で割ってくれよーって感じするよね!
あ、私はできてないです!
自分を信じる力の強さ、みたいなのがあるのかもしれないけど、
そういうと、「自己肯定感が強い」とか勘違いする人がありそうなので、そうじゃないんだよなと。
肯定できてるかどうかは別なんですよ、だって自分の作品をむちゃ叩かれてみてください、関係ないわーって言える人どれだけいる? それでも私は自分の作品を好きだとおもって続けるか、やめちゃうか、くらいの差ですよ。続けてても傷ついてるじゃん!
自分を信じるっていうか、もっとわかりやすく言うと、自分のせいだとは考えたくないわけですよ。自分は間違ってない、と強く思う。そう思う理由ってのは特にない気がする。養育環境の良し悪しも関係ないと思う。
もうなんていうか、自罰か他罰かという話、それだけなのでは、みたいな。
でもなんか、他罰は迷惑だからダメ、自罰は可哀相。みたいな視点がありそうな気がします。いや、それは分かる、被害者にはなりたくない。
でも、当事者にとっては、一緒だよねーという感じです。
回復の方法はあると思う、でも、運だよねとしか思わないっすね。
とかいうのをお話で描いたんじゃないの??ww