CT(コフィンテキスト)の訳例ないんだった…訳せるかな…
と、不安になってた時でした。
とりあえずまあできるだけやってみようと数行訳していったところ、
途中、急に、
「なんか、なんかこれ、見たことある…!!!」
って、なったんですよ。
エジ語訳すときは
とりあえずヒエログリフを写すんですが
写しながら、意味が分かるときもあるけど、まああんまり長いと、区切りが分からなくなったり、区切れても意味がつながらなくなったり、まあ分からない単語は多いしで、淡々と写すだけみたいになる。
今回は、途中で同じような文が4回繰り返されてるなあとか思ったけど、短すぎて何て言ってるのか分かんなかった。
まあとりあえず初めから見ていきつつ、分からない単語を調べて埋めて流して見る、みたいなことをしてると、後ろの方で立ち上がった訳のおかげで、分からなかったその前の部分が分かるようになる、みたいなことによくなるです。
そうして進めていくうち、読みやすい文につき当たって。
「4つの風を作った」(呼吸ができるように)
あー。四方の風ね、あるあるー。
と思いつつ次へ。
「増水を作った」(貧民が富豪と同じように力を持つように)
うんうん神さますごいよね。
と思いつつその先へ。
「人をその兄弟と同じように作った」
「不正をすることを彼らに命じなかった」
と、このあたりで、
・・・あれ。なんかきいたことあるぞ、となったんですよ。
初めて読むはずなのに。コフィンテキストの訳なんてほとんど読むことがないのに。
なんで…?と思いながら、つづきも読んでみると、
「彼らの心…背く…私の言ったこと」
あーーー!! やっぱり知ってる!
これぜったいどこかで見た! 何かに書いてあった!
だってこのあとも知ってるもんね、「西方を忘れないようにした」…(確認)…やっぱり!!
もうこれ間違いないわ。どこかに書いてるはず。
教訓文学とかそのへんだった気がする!
・・・みたいにひとりですごい興奮してました。
で、神話集成を開いてみたけど、どうもそういうところが見つからず。
おかしい。いやぜったいどこかで見た。これ以外に何がある?
そもそもコフィンテキストの訳なんか何にでもは書いてないわ。レアだわ。とおもい、
(この時まで、教訓文学にその抜粋があったのかも!と思ったんだけど、違ったよ)
ありそうと思えたヤン・アスマンの本(邦訳されたもの)を開いてようやく見つけたの。
でも、この本一度しか読んでないし、こんなはっきり覚えてる自分にびっくり。と思っていて。
いま、訳の間違いをチェックするために比較してて気づいた。
(ぜんぶ自分でやってみるまでは見なかったの!カンニングになるからw)
うーん、これじゃないわ。
こんな訳じゃなかったもん。
それで神話集成をもう一度よく見てみたら
解説のほうに、しっかり訳が書いてあった。
これだーーーー! まちがいなくこのやつだーーー!!
教訓文学の、中じゃなくて、その解説だったのに、勝手にセットにしちゃってたんですね頭の中で…。
コフィンテキストの訳だ、と、ちゃんと認識せずに読んでたんですねえ…。
いやしかしこれとわかってスッキリしました。
訳された言葉の感じが違うだけで印象が違うものですね。
聞いたことあるわーと思いだす直前に、
そこにくりかえし出てる短い文、
訳が分からなかった部分が、なんて書いてるか分かった(訳でどう書いてるか思い出したからw)んですよ。
というか、つなげて読むうちに自然と出てきたんですよね。
「それがそのひとつである」みたいに。
たぶん、その時点で、記憶が引き出されてたんでしょうね。
私は○○をした、それがそのひとつである。
私は○○をした、それがそのひとつである。
みたいな感じの文が続くわけで、「それがそのひとつである」っていう言い回しが特徴的というか、
見たことあると気づく前は、「そういう文の型」みたいなのがあるのかなあとか思ってました。
まあ、思い出すと、ここの文が特徴的だからこそ、聞いたことあると気づけた、みたいなとこがあったのかなと思います。
日本語に訳されたの見るとなんでもないけど、エジ語ではこう書くんだなア、と気づけるのがまた楽しいです。たいしたアレじゃないけど…。
ここをそう訳せばいいのか―、ここってそういうことなのかー、って分かるのは気持ちいいですね!
このためにエジ語やってるーw
(依然として分からないことのほうが多いわけですが…)