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ひとりごと

気遣い過剰

『優しさ過剰社会』―人を傷つけてはいけないのか―

 相手が傷つく「かもしれない」ことに対して
 過剰に反応すること
 よくわからないなあと思って、乗れず、怒られることが多かったこれ。
 いや自分もしてるところはあると思うけど

 もっとしっくり来たのはこっちのサイトで

どうして日本人の「気持ち」は分かりにくいのか

 京都の「ぶぶづけ」とかネタにされるけど
 ああいう精神についてですね。

 相手を傷つけまいとして
 遠回しな言い方をする。
 だけど、
 その「気の遣い方」にも「型」がある
 その「型」以外は「気遣い」とは認められない

 みたいなところがあるようで
 地域差があったりするしで
 私には理解しにくいものだったなあと

 それに気づいたのはもう20年前ですが
 その時思ったのは
 結局、相手を「思いやっている」わけではないんだ、
 「内輪のやり方」を確認し合って安心したいだけなんだ、
 ということだった。

 それは今でも間違ってないと思う。
 でも、
 それもまた、どの文化でもあることで(特に閉鎖的な文化はありがちで、そんなの世界中どこにでもある)
 否定するような事でもないということが、今は少しわかる。

でもそれには
 その文化の外にいる、その「型」を知らない人は、むしろ
 「知らない」ことによって傷つけられる、という事実があって。
 まあだからこそ、閉鎖的な文化でのみ有効なわけですが…
 つまりは、排他的なやりかたなんですよね。

さらに、
 こうした「気遣い」には
 それを「汲むべき」という
「気遣いを強要」する面もある。
 なので、どうなんだろう。と思うところが多かったです。

ただ
 お互い疑問に思ってなければ、これによって非言語のコミュニケーションが成立するので
 気持ちよくやれる。
 そういう効果があるので、悪いことばかりとは言えない。
 いちいち全部考えてやるのってかなりストレスなので
 そういうものもとても大事なんだけど
 (うちも言葉を正確に使えないのでいつも非言語でやってる…「どうもどうも」みたいなね…)
 「排他的である」ことが意識される必要は、あると思う…。

 「気遣っている心」がそこにあるなら、尊重できるとお互いに嬉しい。
 けど、
 気づかないとき、馬鹿にされたり怒られるのじゃあ
 何が「気遣い」なのやら、と思う…。

(よく、気遣いに気づけず怒られてたので、そんな気なら遣ってくれない方がありがたいわ、と思っています)

 傷つけるかどうかも一緒で
 特に「直接そのまま言う(する)」ことを「=傷つき」と解しやすい文化みたいで
 遠回しに言う、または言わない。みたいにするじゃないですか。
 察して文化、と呼んでましたけど

 いや、わかんないよ

 そういうことされてると
 喜んでる形を見せても本当に喜んでるのかかなり疑わしいと思うし
 遠慮してるのか本当にやめてほしいのかも全然わからん。
 だから言われたとおりに捉えて反応しますけど
 言ったそっちの責任ですから、と割り切るようにしてます。

 わかるよーーー
 郷に入りては…というくらいだし
 察するべきところはあるよねえ
 私もある程度できるんだけど
 その場やグループによって何をどう察すべきかは当然違っていて
 私はそれぞれにうまく適応する力がないんですよね
 少なくとも「素早い適応」が不可能。
 
 わかる人ってすごいよなあと思う
 慣れもあると思うけど
(そして慣れにかかる時間には個人差があるとも)
 もう30年近くやっててもおかしいなあと思うので
 個人の感覚の差ってことにしたい

 分からないものは分からないので
 はっきり言ってください

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