じぶんのなかで
「本当のこと」がすっごく大事な感覚があるんだけど、
よく「本当のこと」なんてない、みたいに言われまくってた。
わかるんだよ
たしかに仰る通りで、
たった一つの真実みたいなのってありそうでないもんだし
そういうのを目指すと偏って間違いがち。
もっと広く見て、物事に白黒はっきりさせすぎない、「中庸」が大事なんだ…
理屈では、それはすごくわかる。
理屈でわかるからこそ
心のほうではどうしてもそれを追ってしまう自分のままならなさを歯がゆく感じて
きっとそれが私の思想の根っこにあるものだから
もう存在を否定されたかのように感じることがままあったの。
意味がない、むしろ害にしかならない・・・みたいな言われ方だったなあ。
でもまったくその通り過ぎて…現実的な視点ではね。
ただ、そういうことを求めてやまないのは私自身なので、むちゃくちゃ傷ついた。
(傷ついたけど、衝撃的だし向こうは間違ってないしで、いろいろ自分について考えるきっかけになったんだよ。必要なことだった)
まあその人にとっては当たり前すぎることで、まさか傷つくとは思わないし、むしろ「目を覚ませ」って激励のつもりだったんだと思う。
だから…、
価値観の差って本当埋められないよなあということをしみじみ思うわけで。
(私も、こんなの当然じゃんという体でよく傷付けてます。恋愛感情とかな。私には価値がないから。でもつまりそういうことなのよ。みんな。わかりあえないよ)
私的には
たとえ、人によって抱く事実がそれぞれ違っていても
実際にそこに「事実起こったこと」はたった一つだし、
捉え方が違っても、ひとりひとりにとっての「事実」はそれぞれ確かにあるはず。
それを追究することは途方もないことであるけど
見えにくいからって、それを追究することを「無駄」だとは思わない。
でもやっぱ本当に仰る通りな部分はあるので・・・
まず、間違えやすい思考傾向だし、
実利は全くない。役に立たない。見つからない方が多い。
それでも、気持ちが求めてるものってどうしようもないじゃん。
どうしようもないことを思って変えられないとき、
それは人として「ダメ」「どうしようもない人間」なんだろうか?
とかよくおもう。
今んとこの結論としては、
そう思う人は思えばいい。実際かなり思われてる自覚ある。
でも自分の根っこの部分を変えることはできないんだよ 少なくとも簡単にはできない。
そういう頑固さは確かにマイナスなのかもだけど、
それが私自身なんだよね。
私がお話をかいて主張したかったことはいまも変わらずある。
じぶんのどうしようもなさ。
否定されても変えられない根の自分。
それって形は違えど、誰にでもある し
自分のものとかたちが違うと、理解しがたいんだよな…
変わらない自分自身、というものは、本当によく否定されてきた。
これも、たぶん頑固さが人によって違うんだろうなと、今は思ってる。
柔軟で自分をうまく変えることがとくいな人もいると思うんだ。
それの程度は本当にそれぞれで
私はできにくい方。
だからこそ、「変わらない私という『根』が確かにある」という思想にこだわりやすいのよ。
自分の思う真実がそれぞれ違うのは、人としての傾向や価値観が異なるからで、
だから、思想がいろいろ生まれている。求めるものが違うから。
私たちが求める真実は、こういう「価値観が違うので多様な思想ができてしまう」というようなことであって、
「真実は一つであるべき」と言って無理に集約させることではないんだよ。
ただ、間違ってそっちに寄りがちなこともあると思う。
どれもマイナス面はあると思うんだよね。そこは自覚できた方が強いなって思うね。
・・・ということで
なぜそういう(真実を求めたがる)ことを否定されてきたんだろう?と考えたとき
ああ、「実利」が何より大事な人もいるんだなって
この性格分析みたいなのを通して、思えるようになった。
(ちなみに私は実利みたいなのを価値の低いものとみなしがち…本当に価値観が違うと喧嘩になるよ…)(価値の高低はそれぞれ自分の中にしかないものなんだろうが、思うものは仕方がないw そして私も、実利大事な人には、無意味なことしてんな~と価値低いもの求めてるように見えてる想像が容易につくわ)
おもえば
箸の持ち方についても
「叩かれたくないなら綺麗に持てばいい」という理屈で。
なんだろうこの、根っこの部分から理解しあえない感…。
理屈ではその通りなんだよ。だから反論はしにくいな
でも、気持ちとして、そうすることが受け入れられない、
そこに、損得勘定なんてナンセンスすぎるんだよね…。はあ!?というきもちになる。
でもなぜしないのか、が、主観すぎてつたわらない。w こっちもうまく説得力のある話ができずずっともやもやする。向こうは確かに間違ってないし。
(この、向こうは間違ってないってのが分かっちゃうからこそ、なんでこっちだけは間違ってるってされるの?てもやもやがすごい)(実利のほうが客観的なので理解しやすいのかもしれない…それはそれで、分かりにくいものを持っててよかったと思う…それだけじゃないと気づきやすいから)
そういう、どうしようもない気持ちの抵抗、みたいなのを、あまり感じない人もいるんだなって思う。
いやむしろ理解できる人少ないかも?
わからんけど・・・
でもこういうのって、実利に沿った理屈のほうが分かりやすいので、支持を得がちよね。
わたしみたいなのはたぶん、マスクとか絶対しないとかなりがち(マスクには個人的に抵抗がなかっただけで、パターンとして理解できるんだよな…)。
根っこにあるもの、根源。みたいなのが大事に思えるので…
例えば箸でいうと、
そもそも「このもち方でないとダメ」みたいなのって何で決められてるの?意味あるの?て思う。
それを叩くことに何の意味があるの?お気持ちの問題?それって刷り込みだし、あまりいい感じしないよね…っていう。
叩くためのマナーみたいに見えるし。慣れたものじゃないと気持ち悪い、みたいなのって、刷り込みだから、変えることができるんだよ。もうやめないこんな不毛な戦い…。
そもそも、あまり器用でなく上手に持てない人もいて、強要されるのが苦痛だったりすること、すこしは想像してみてほしい。
苦痛だったけど無理やりされて今はいいと思ってる人、その苦痛って必要ですかね…?
社会が持つそういう価値観が変わればよくないですか…?(この途方のない思想が、実利系の人には呆れられそうと思う…でも不可能じゃないよねっていう、・・・理想主義だなぁ)
綺麗に持つのが素晴らしいのに異論はないとして、そう持てないものを「叩く必要」ってありますか…???
ていうきもち。理解されなくてもいいけど。
「そもそも」とか言いがちだよねw
あまりに実利がないし話しが面倒すぎて、こいつ嫌だから理屈こねて避けてるだけじゃねって思われる(母にそう言われた)。
いやそういうとこもあると思うけど
そもそも根っこのところの、大事なものが、ぜんぜん違うし
考え方が違う、から、理解しあえないんだよね…。
そうなのよ
昨日推しGの一人がインライで
自分と意見の違う人の意見も聞きたいし否定したくない。と語られていて
それは理想なんだけど、「実際は」そうはいかないじゃない。って気持ちがむちゃくちゃ大きくなって。
まあ、私の場合は言い方が下手とかいろいろあるんだろうけど
この人はまた、人格のある人に見えるから、けっこうそれが可能なのかもしれないけど…。
価値観の根が違うと、そもそも互いの意見を理解「しようとする」ことすら難しいんだよな、ってずっと感じてきてるから・・・
自分の思いだけでは成せないことだというか…。
こちらが頑張って理解しようとしても、お前がおかしい!と言われるとどうにもならないし、そういうことのほうが多くね?みたいな気持ちになってしまい。
とはいえ、それは私の人徳のなさも多々あると思うし
彼は、そういうところは平均よりうまくできそうな気がします。
周りに恵まれていたから言えるのか、・・・いや、彼ならやっぱ、けっこうそれが可能なのかもしれない…と おもう。
ただ、その「考えが違う」ことで「理解しあえない」ことを繰り返してきたから
思ってもできないよね、みたいな気持ちのほうが前にきちゃって。
なんか聞いてて苦しかった話です。
でも根っこの価値観がこう違うんだって分かったら
相手に理解はされなくても 自分はスッキリするかも
・・・ていう、実利より自己満足を重視しがちなのがINTPっぽさかも。
結果、使えなくて意味のないようなものばかり求めるんだよね。その自覚はまああるw
でも
自分の気持ちが一番だから…。
実利で満足できる人間なら違ったんだなあとしみじみ思った。