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ひとりごと

おへんじ!

>おうち穂里さん

 こんにちは、お久しぶりです、いらっしゃいませ!
 暑いですよね…クーラーを切るタイミングが本当につかめないです><
 にゃんこの写真見てくださってありがとうございます♥
 
 お化粧、においとかダメなんですね。そういう「合わなさ」もありますよね!
 それでも好きなら我慢とかしそうだし、やはりそもそも、そうすることが気持ち的に「合わない」というのはありそうですよね…。

 大人が好ましく思う「子供」を演じるということ。なんだか、そうやって自覚的にふるまえるってすごいことだよなあと思います。でもお話を聞くと、おうちの雰囲気でそう「せざるを得ない」感じだったのでしょうか…。すごくきつそうです…そんな環境だったら私どんな人間になってただろうと思います><
 うちは本当に自由にさせてもらっていて…(ある意味言っても聞かないので放置されたというか…それでも厳しく無理にさせるとかではなかったので)。でもそのせいで常識が無いのかなあ…と、よく思うんです・・・
 が、実際には、どう育てられても常識は身につかなかったのかも…>< 何にも吸収しないで生きてるから…。wあああ

 お化粧のことは本当によく分からないですよね。服装もですけど…。
 したい人はすれば良くて、したくない人はしない、が普通になると一番いいですよね…。
 個人的には、お化粧に限らず、箸の持ち方も、正解をひとつガチガチに決めて「こうしないとダメ」みたいにするのは、なくなったらいいのにって、思います…。

 コメントを残してくださってありがとうございました、お話できてうれしかったです♥



***

 雑記。
 私が思えば私、の話を読み直していて思い出したんだけど
 「私という見た目」が「私」だ、というのは、自分はもちろん、特に他人からはそうだと認めやすいものだけど
 「私である」と思うのがそれとは限らなくて
 整形したりするのも、それを自分と認めていないから起こるんだよね。
 それがおかしいと感じる方だったけど
 私、というのが観念でしかないのなら
 わかりやすい自分の見た目そのもの、が、「私」である、というのも、
 多くの人が思いがちなだけであって、決めつけになるんだろうなあ…
 みたいなことをおもった

 じぶんは今は特に、自分が着飾るより、着飾ってる綺麗なものを見る、方が好きで
 そういう、「この服は好きだけど、着るのは私じゃない」みたいなのありますよね。
 絵でも、「こういう絵は好きだけど、描くのは私じゃない」みたいな。まあまず描けないけど、描いてみたいと思わないとかそういうのがある。
 いやでも学生の頃は、自分がそういうものを着たり、そういうふうになれたらなあと思って真似したりすることはあった気がする。
 だんだん「これじゃない感」に気付いたりするものなんすかね。
 客観視に必要なのは失敗の経験なのか…?



 本の続きまだ読めてないw
 月の書って呼ばれてるのは、ヘルモポリス(月神トトの信仰地)周辺から出る棺に書かれてるのがほとんどなので、そこの書記か神官が挿入したんやろうという話だった。
 月の満ち欠けにつなげて死者の再生を保証させるそれらを、「新しい考え」と書いてたけど
 ピラミッドテキストで既に「ホルスの目」が故王(オシリス)の復活に関連して何度も捧げられてるところを見ると、ホルスが主要な神であったころ、つまり初期王朝時代とか、遅くとも古王国に入る頃には、もうとっくに、死者の再生は月と結び付けられていたのでは?とか思っちゃう。だって古王国のお墓の偽扉にもう月の朔望に関わる祭=死者の供養祭の名前が出るし。
 月と死者のかかわりはかなり古くからあって、むしろ古王国後半に、太陽信仰が新興してきて、西に沈んだのが東に昇る=再生!みたいなことが強調され始めただけではないかなと。
 コフィンテキスト(の、特に『月の書』)は、そういう太陽信仰からなる王の葬祭理念(≒ピラミッドテキスト)に、昔ながらの考えを、まあ少しは進化させて、「再興」させただけなのではないか。みたいに思っちゃった(勝手に)。
 しかしミンと月のとこでも書いてたけど、月と死者(特にオシリス)との繋がりって、もうちょっと後代のほうが、図にもよく書かれる感じはあるかも。
 もしかしたら、月=死者は民間には当然のように持たれてた感覚で、王族は「それ以外」の特別な道を強調したかったのかもしれませんね。だからその後、新王国時代でも、王墓では太陽が地下を旅する様子が幾重にも表現を変えて記されるのかなと。門の書アケルの書アムドゥアト洞窟の書・・・

 それより、トト神と月の関わりってどういう感じなんやろ。やっぱトキのくちばし説が正しいのかな…。意外に単純なのがあってたりしそう…。
 ヘルモポリスがもともと月を重視して天文学で何か発達させたとかなのかな。完全に想像なんだけど…w
 トトが出る前から、天文学が盛んだったとか何かありそう。
 「5神」もなんかありそうなのに何も知らん…。8は分かるけど(原初の神ですよねたぶん)。ていうかいろいろありすぎ。5と8は違うんでしょ?? だから5は何なの――




 全然関係ないけど
 ナショジオの別冊「エジプトの女王」みたいなのちょっと見てて。
 男性優位の世界で頑張った・輝いた女性!みたいな視点、実はちょっと苦手なんですけど、
 初期王朝時代のメルネイトが出てたので気になったの。
 王だった夫が死んだとき、世継ぎの息子が幼かったので手伝った、程度だったのかもだけど
 墓が素晴らしかったとか。名前の書かれた碑が有名ですよね。むしろそれしか知らんかったけど。
 でね、まあハトシェプストとか合わせて6人紹介してて、みんな二つ名みたいなの付けられてるんだけど、
 このメルネイト、「血の王妃」とかあって。
 何が「血」なんだろう、何したんだろうって気になったんですよね。
 どんな血生臭いことやってきたのかと思ったら、殉葬のことだったんですよ…。
 初期王朝時代は、王が死んだら人身供儀というか、たぶん死後もあの世で同じように生き続ける、という信仰で、王の周りの役人や世話係も一緒に殺してお供させたみたいな感じだったと思うんですよ、というか私はそう思っていました。
 でもこの記事の書き方が、
 そういう信仰だったという説明が薄く、血生臭さや残酷さ強調してたので、すごく嫌な感じがしたんですよね。
 歴史に限らず、特に人に関わることになると、描いてる人の感情をまったく抜きに説明するのは難しいことだろう、というのは分かるんですが、
 ナショジオでもこんな感じなのか、というガッカリ感がありました。あまりにも感情誘導的というか…書く人によったのかもしれませんが…。今まで気にしてなかったので、もしかしたらこれまでは、自分の感情が普通に流されてて疑問にも思わなかったのかも。
 今回は、私も知らないことではなかったので、その事実を受け取る感覚があまりにも違って驚いちゃった。
 古代でも女性が王にーって持ち上げながら、現代で肯定しにくいことに関しては、いやいやせざるを得なかった…みたいな書き方をするの、なんかフェアじゃない感じがしちゃって…かな。女性なら嫌だっただろうみたいな、そんなのわかんないやん…。

 なんか第一王朝の王族の女性はネイトの名がついてる人が多くて
 ネイト女神ってたしか、男性におけるカーの女性版である…ヘムセトだっけ、そういうものを象徴する神だったとか聞いたことあって(そういう意味では、カーっていうのは霊とか何とかいうもののうち、かなり性別に由った、つまり男性的なものを象徴してたんでしょうね、少なくとも古い時代は…)
 その辺のとこも気になるですよ。そっちの方がうちは興味あるです。
 でも日本語で書いたそういうの無いから、頑張って読まなきゃ…(と言って進まない)

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