>お返事です。(お名前なかったのでどなたかわかりませんが><)
こんにちは、コメントありがとうございます!
金沢大学のプロジェクトについて、情報ありがとうございます!
その日他に講座とっていたりして、無理かなと思っていたんですが、
一部でも大丈夫なら、河合先生のだけでも聞いてみたい感じですっ! でも一部だけってありなのかな…。
他のものも聞ければきっと何かになりそうなんですが…関心が狭すぎてうへへ…。
教えてくださってありがとうございました!
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読み終わりましたよ――
『人はなぜ神を創りだすのか』
最後のほうは本当に儀式の話ばかりでなかなか進みませんでした…(これだから…)。
エジプトでも、ってあるとき具体例を示されないので、どういうことなのか分からないままだったり
そもそも著者の言うエジプトってかなり後代、プトレマイオス期だったりして、ウーンみたいな。
うわーって気持ちが盛り上がってる途中の段階で感想書けばよかったかも><
すごく主観でとらえたものだけ抽出しますので、「そんなこと書いてたっけ」と思われたらすみません。
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この本を読みながら
「神」というものがどうやってできてきたか、を考えると、
まず著者が示した「口(くち)」=ジョーズ、というものが印象的で。
ジョーズって言ったら、サメ映画のあれですよね。見たことないけど。
口をグワって開けて、恐ろしいイメージじゃないですか。
知らなかったんだけど、ジョーズってジョー(顎)の複数形、つまり上あごと下あご。
だから、ジョーズは「サメ」という意味ではなく(まあ、サメはシャークだもんな)、両あご、という意味で、
まさに、映画のパッケージが示す、「口をグワッと開けたもの」のことなんですね。
そして著者が、「口」にわざわざジョーズとよみがなをふる通り、
大きく開かれた口というのは、それだけで恐怖を掻き立てる、と。
たとえば大地が裂けているとか、底の見えない大きな穴とか、岩の割れ目とか。
そういうものに覚える恐怖心。不安感。
神聖なものとは、まさにこうしたもの、から生じているのだ、という話でした。
神とは、基本的に、恐ろしいものである。
または
恐れこそが、神を信仰させるのだ、っていう。
これは、古代エジプト人も自覚していたところですよね(この本によると、メソポタミアの人も自覚していたっぽい)。
コフィンテキスト1130章に書いてたやつ。
神が「神への供物をさせる」ため「西方(死)を忘れぬように」したのだ、と。
古代人に限らず
私たちも、何か暗い、底のみえない空洞とか、割れ目とか、そういうものを見ると、
なんだか怖い、とおもいますよね。
この奥に、何かがいそうだ、みたいな。
目に見えないものへの恐れ。そういう感覚が、根っこにあるんじゃないかという指摘に、はっとさせられたというか。
ここで思い出したのが
どこか(忘れた!)に説明があった、
エレファンティネの初期のサティス神殿のこと。
(とりあえず初期王朝は岩のあたりに小さな小屋を建てていて、だんだん大事そうなところがそこから離れつつも、その場所を含んでたというのが伝われば…↑)
もともと、岩の隙間みたいなものを、祀っていた様子で
それを囲うようになり、だんだんお家のようになって、至聖所は元の位置から離れるんですが、神殿自体はそのあたりに変わらずある。
もとはと言えばその「場所」に神聖さを見出していたのではないか、みたいな。
この場合神さまは後付けですよね。
岩と岩の間。隙間。割れ目のような、「奥になにかが」いると感じるような、不安を掻き立てるもの。
それをなだめる(≒その不安を掻き立てる
何かをなだめる=自分自身の不安がなだめられる、のかな)ことが、「祀る」ことの一つの形だったのかなって。
もちろんそれだけが「神」の起こりとは言えないけど、そういう形もあるのかなあ。
本の中では、人類学的に、みたいな話もけっこうあって
前の記事にも書いたですが、人って想像力を働かせ、危機に備えたり工夫を凝らすことで生き残ってきたので、
その「
想像力」が無駄に(笑)発揮されて、
必要でない、上記で言う「割れ目」みたいなところにも想像力が働いちゃって、恐れる。
草食動物は危機が迫っていてもその瞬間まで草を食んでいる(人間はそうと分かるとその瞬間を想定してそんなことしてられない)のに、みたいなことを書いてて。
もうこの、豊かな想像力が勝手に働きすぎて、結果、神聖なもの、恐れの対象を、イメージせずにいられないんだ、みたいな。
そういう話なのかなーと思いました。
そうそう指を切るやつね
とにかくこう、何かよくないことが起こって、原因が分からないとき、
何か悪いもののせいだ、と感じてしまうのも人間ならではらしいんですが、
そのとき、その「悪いもの」に憑かれて死んでしまうはずのものを、
一部切り離し、犠牲にすることで、助かる。みたいな感覚があるようで。
動物でいうとえーと、トカゲですか? 分かりやすいの。
トカゲとかがそうするのは合理的ですが、そういう「合理」を失っていても、「想像力」がいろいろつなげて、合理性を「見出して」しまった結果、
「一部を犠牲にし、全体を助ける」ような事をするんだ、
それが、指を切り取るという行為でよく出てくる(というのは、指の損失はそれほど影響が大きくなく、しかし確実に自分の一部であり、相応の痛みを伴うことで説得力を持つと思うらしい)
という説明がありました。これは儀式に関わってたのでくりかえし書かれてましたね…。
文化によって何を犠牲にするかは変わるけど、
基本的な考えは変わらなくて
嵐になったら財産を海に投げ出すとか、財産とみなされていた羊が犠牲として差し出されるとか、えーと…イザナキが冥界から帰ってくるとき、追っ手をかわすためにいろいろ投げるのも似たような発想だみたいな…あ、いろいろ混じったかも。
ここでは虎の子を捕まえる話で例えてたと思うですが
虎の子を捕らえたい時はたくさん捕まえて、親虎が追ってくるたびに一匹ずつ投げて追っ手をかわす。親虎は投げられた子を巣に連れて帰るので、そのぶん逃げる時間が稼げる。(つまり沢山欲しいからたくさん盗ったというより、ひとつ確実に持ち帰るためにその他は犠牲にするつもりなんですね)
まあ人の社会だと、
村の災厄を鎮めるために、村(全体)からひとりまたは数人(一部)が犠牲として埋められたりしちゃうようなあれですね。人として合理的と考えがちな方法なんだなっていう。
なんかそんなこんなで
普通に考えると非合理的なのに、それを「合理的」とみなすようなことを人間はいろいろやりがちで、
その背景には「動物だった」ひとの生き方に根差しているようなものがあったりする。
それで、その非合理さを合理的に想わせるために、聖なるものが存在してたりするんだ、と。
(聖なるものがそのために生み出されたというより、恐れから生み出されたものがそうした様々な理由づけを経て神聖なものへと上げられる感じなんですかね…)
ちょっと理解が怪しくてすみません。
個人的には
私の大好きな「『わたし』をつくりだす『私』」みたいなのにつながってるなあというか。
人ってどうしても意味を求めたいから
だから物語をする。
その物語は「どうして」→「なぜなら」が軸で
事実、真実は分からないけど、見えてるものを合わせて意識の中で勝手につじつまを合わせるもの。
それで生じるのが「私」だし、神様も一緒なんだよねみたいな。
悪いことが起これば、罰が当たったんだと思うし
だから、それを償わなければならない。
それを起こすのは、神か悪か、とにかく人を超えたものだから
なんとかしてなだめなくちゃいけない。
罰が当たる、つまり命をつかまれてる状態であるなら
身代わりを差し出さないとそのまま持って行かれる。みたいな。
まあなんかそんな感じでぼやっとなんですけど
私も、つらいことがあったら、何か自分がいけないことをしたせいなんじゃないかってどうしても思ってしまうので(ちょうどそういう時だったしで)
なんかすごい説得力があったなーと思いました。
とはいえ
古代エジプトの神々、特にセトやホルスなどは、
地域で生じてる感じがすごくするので、
古代エジプトの、というとき、神を知るのには、この説明では不十分だなと感じているし
読みかけの、エジプト神に特化したやつを、頑張って読んでいこうと思います。
けっきょく興味あるやつだけをピンポイントで攻めてくれてるやつを読みたくなる…。
なんか納得いかないというか。
古代エジプトのけ者みたいだったしな……。地理的には近いのになー。
***
すごく個人的な想像だけど
今んとこ、古代エジプトでも、神様が時代ごとに立ち位置が違うというか、
だんだん「神聖に」なっていってるんじゃないかって思ってます。
というかそういう感じのことを書かれていたと思うんだけど(あやふや)…、
初期王朝時代の「神」と、
古王国時代の「神」と
新王国時代の「神」は、
同じ名前で呼んでいても、感覚が違うんじゃないかっていうか。
新王国時代の王様は
遠征や討伐に行って勝利すると、神に寄進をしていたそうですが
古王国の王様ってそういうことしたのかな……みたいな
(いやしたのかもしれませんが)
はじめは作りだしていることに自覚的だった部分が、
だんだん抜け落ちてきて
民衆をまとめるための「口実」だったもの、支配の道具として生じさせたものに
逆に支配されるようになってしまったのではないか、みたいな
そんな感じがぼやっとしてるんですよ。
自ら作り出したものに、結局は支配されてしまう、というのは
なんかいろいろありそうですよね……。
妄想はいいから本を読めって感じ・・・。