ハイジの翻訳違いを読んだりしてました。
自分が持ってるのは福音館(矢川澄子)ので、あと岩波少年文庫(上田真而子)と講談社少年少女世界文学館(池田香代子)そして角川文庫(松永美穂)を借りて。
けっこう初めに読んだやつの印象が強いせいか、やっぱりはじめのが一番好きってなりやすいんですけど(笑)。
角川の松永さんのやつは一番新しいじゃないですか。それに字も小さいし文庫サイズなので、大人向けっていうか・・・あと訳者がドイツ文学者とのことで、かなり忠実に訳されてるのかな?と思って読んでるんですね。でもそんないうほどでもないかも・・・? それか、元々の文章がそもそも子供向けに言葉を選んで書かれてるのかもですね。さすがに原文の確認はできないですが><
講談社の、池田さんのやつは、さっぱり削ってる、みたいな部分が多い。ページ数とかあるんだろうな。話の流れは、だからすっと入りやすいと思う。
子供に初めに読ませる工夫って、あるんだろうなあとか思うんだよね。そのままを読む、は理想だけど、ともすれば文学嫌いになりそうかもって思うので。けっこう回りくどいよね。自分は、今読むと、そういうとこがむしろ好きだけど…。(子供の頃は一切読んでませんので、想像で言ってます)
4つ読んで、だいたい同じなんだけど、ひとつだけなんか訳が違う。みたいなこともあって、そういうときは最新の角川(松永さん)のやつのことが多いんですね。それ以外が全部ああだったのに、これだけこう、となると、ちょっと不思議だったりするけど、実際どうなんだろ?
でもそのうち、すごく納得!と思ったのがこれ↓。
セバスチャンが、幽霊はハイジの仕業だと知らされた後、「あの時自分でちゃんと確認しとけばなあ」って考えた後の地の文で、今では(その時と違って)明るい、みたいな文が入ってるみたいなんだけど、そこはたいてい「そりゃ、今はもう日も昇って、これだけ明るくなってるんだから、正体探るのもわけないわ」みたいなニュアンスで訳されてる(ように読んでた)。
だけど、松永さんの訳は、その「明るさ」は、セバスチャン自身の幽霊に対する認識、その正体が、いまではもう「明るい」=明確である、という話になってて、次の文で「しかしハイジには物事が明確ではない(何が起こってるのかよくわからない)」という感じで続くの(文をそのまま引用したわけじゃあないです、雰囲気だけ…)。
たぶん、「今ではもう明るいので」という文だったのかな、「だからもう怖くない」というニュアンスはどっちも同じなので、問題はぜんぜんないと思う。差と言っても、「暗くないから、今なら正体を探るのも怖くない」という感じか、「今はもう正体が分かってるから、恐れることもない」という感じ、ぐらいしかないし。
でも次の文との対比になってる、と気づかせてくれたのはこれだけだったし、そういう「仕込み」に気づけた方が、読んでて楽しいなあとおもったでした。
あとー
4つ読んで二つずつに分かれてそうな、ていうか正直どういう意味か分からないのが、ハイジが戻ってきたときパン屋とかわすセリフの最後。
ふたつほど「この子のほうが賢いのかもしれない」と訳してるんだけど、どういう意味か分からん。もうふたつは「(おじいさんのとこに)行ってみればわかる(考えが変わる)だろう」みたいになってて(元は、「この子にはわかるのかも」みたいな感じの文なのかなあ?? どっちとも取れそうな…)、
つまり、先の訳だと、ハイジの考え(村人には怖そうに見えるあのおじいさんとこに戻りたい、という考え)に肯定的。あとのやつは否定的に見えるんだよ。
こういう時、全然逆じゃん。って思っちゃうんだけど、
そもそも私が日本語の意味をうまくとらえられてない可能性もある(笑)。つらいw
あとはあれ
ハイジが幽霊の正体だって分かったとき、お医者さんがハイジとかわすセリフで、「山なんかつまんなかっただろ?」ってお医者さんが言う意味が数回目でやっと分かったw わざとハイジを泣かせようとしてたんかー。(泣くの我慢しすぎたのが原因の一つと見抜いたってことね)
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アニメとは本当に違って、
まあ回数もあるから話ひろげないとだし、そもそもこの話かなりキリスト教色が濃いので、ほとんどの日本人にはわかりづらいだろうってことで変えたんだろうけど。
アニメもいろいろ考えてやってるんだろう、というのは思うけど、原作の流れの納得感が、すべてキリスト教の話に基づいているので、これを削ったら別ものかなあという感じはどうしてもあるかも。
でもまあ、アニメがよくて、原作手に取ったんですけどね!
アニメは、クララの足が雄大な自然の力によって治される。みたいな感じだけど
原作は、自然の力ももちろんあるけど、まず心の中の変化がある。そういう、(基本はキリスト教的精神だが)人として生きる喜びとか、苦しみの乗り越え方みたいなのが、原作にはよく書かれているなあと思う。
作品の中の宗教色についてですけど
あれですよね「放蕩息子」。うちキリスト教とか聖書の話を全然知らないんだけど、この「放蕩息子」はなんかある時期すごい目にする機会があったので調べたんですよね。
流れは分かるけど納得はできないでいたのが、ハイジを読んでよくわかった。あーこれ、信仰を一度捨てたものが、ふたたび神を信じようとするとき、神はそれを喜んで受け入れられるという話なんですね。
そしてこれこそが、ハイジの第一部のクライマックス、つまりおじいさんの改心。
放蕩息子の話を知っていて、ハイジを読めば、きっとアルムのおじいさんは放蕩息子のテーマを伝えるために設定された人物だなって気づくよね。ほぼそのまんまだから。
前も書いたけど、牧師さんも村人も、純朴を通り越したありえなさでおじいさんを迎えるけど・・・はじめは気になってたその「ご都合」さも、繰り返し読んでると気にならなくなり(笑)。ていうかこうならないといけなかったのかなって。
だって放蕩息子は、信仰を捨てた過去の自分を恥じ、もう一度戻ることの大事さを説いているし、それが何より大事だからこそ、過去の過ちをあげつらうことはしない(だから気兼ねなく戻ってくるんだ、そうすべきだ)という話なんだものね。
(もっと深い意味があるかもしれないけど、私が分かるのはこれくらい><)
たしかに印象的なお話ですよね。いいおはなしだ。
なんかあれに近い感じする。いわんや悪人をや…って歎異抄だっけ?
こういうのをこそ教養って言うんだろうなあ…。まあ、引っかかったときに調べるよ…。
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しかしあれ。
お話を訳す、特に物語を、って、すごく難しいだろうなあ…。
これらを読んでいても、結局お話として楽しめるのは、リズムの良さとか、キャラクターそれぞれ「らしさ」がセリフに出ているものだったりして(私にとっては、ですよ)。
語の形、受動態とか語順とかまで気にしていたら、そういうとこが削がれがちかもしれないなって、思う。けど、そのあたりが変わると、伝えたい感じとかも、変わっちゃうかもで、難しげ。(しかし忠実にしようとすると、日本語としておかしくなることもあるし、伝わりにくいところは言い換えるだろうし、匙加減とかあるんだろうな)
好きになると、原文のニュアンスとか知りたくなっちゃう方ですが(なので、エジプト語やって神話関連の文を読みたいわけですよ)、
それを、誰かに伝えるとき、どうするか。
やっぱ、目的にもよるのかな。
エジプトの神々についての話だと、背景や役割を知っておかないと、書いてるものを読む「だけ」では、そもそもどういう意味か理解できない。とかむちゃくちゃありますけど…。
だから、こう書いてるのはこういうニュアンスで読むんだって、分かると嬉しいよね。
もちろん、知らないことのほうが多いので…文法は怪しいし。
訳してくれて、その意味を説明してくれるやつとか見つけたら、そりゃあ楽しいです。
よくこんなのわかったな!ってよく思います。すごいよね!
だから日本語で読めるそういうのが本当に少ないんだよおお…。