オシリスの苗床の説明があると思ったら「トウモロコシ」ってあってw
ああ、cornって書いてたのね…と思う。けど、穀物って訳してほしい!
でもエジプトだけのやつじゃないし、翻訳者さんもそんなあれこれカバーできないのわかる…。
ある社会は、ある「物語」を共有する集団である、っていうの
なるほどな―と思ったのでメモッとこうと。
私が、日本に対する苦手感を持っているのは
その物語(社会の常識)を共有できないと感じることがあったからで。
知ってて当たり前、のことを知らなかったからで。
(知らなかった、だけでなく、共感≒共有できなかった。のが大きい)
別に日本がどうのではなく、他の国の人間だったとしても、その国に対して同じように思ってそう。
いろいろ知らないので。
○○教とか、○○神とか
何か「信じてる」って言わないでも
属している社会があれば、そこには共有される「物語」があって・・・
あー、古代エジプト人は「ナイルの水を飲むもの」が同胞だという考えがあったそうだけど
つまりは
ナイルの西方に、ミイラにして埋葬されることが幸福である、という「物語」を持っているものは、皆(古代)エジプト人だ、ということなんでしょうね。
見た目とかは様々でも。
物語を共有することは、何かに属すること
何かに属することは、安心をうむ
だから
理屈なんてなくても
物語を持っていたいと思うものだし
持っているほうが、心が強いよねえ。と思う
理屈の通った「事実」よりも、自分を慰めてくれる「物語」のほうが、強いよね。
だから、文明が発達しても、「目に見えないもの」にすがることはやめられないとうちも思う。ていうか、そういう「実質的なもの」を大事にすればするほど、なお強く「目に見えない、実質的でないもの」にすがりたくなると思う。
私というもの自体が観念で、目に見えない、実際には「ない」と言っていいもので。でもそれでも、それを事実に従って「ない」としてしまったら・・・、アイデンティティ(私は「私」である、という感覚)を失うときの精神の不安定さったらないとおもう。まともに生きてられないよね。それと同じで。
どっちかってと、そういうものと「どう付き合うか」のほうが大事になっていくんだろうなと思う。
事実だけを大事にするというのは、強そうで弱い。
観念だけを大事にしようとするのも、実はもろくて
両方むすびついたものが一番「納得」できる。
見えない「神」それだけよりも、それを象徴する十字架とか神像があったほうが信じられるみたいな、そういうのってあるよね。一般的な、浅い層ではね。
でもこれを疑いだすと、むしろ「何もない」方が強くなる。否定される要因をなくしてしまうから。
そうして、「目に見えないもの」はうまくすれば目に見えるものよりも強く「飲み込める」ことになる。
ために、それに引きずられて間違っちゃうこともある。
その「間違い」を大きく取り上げられて、「だから目に見えないものを信じるのは良くない」と思いがちだった、けど
それを否定すると人は弱くなって、不安になる。
だから、なくしたりはできないし、「持ってない」と思う人も確実に持ってる。科学とか大事にする場合にそういうの持ってないという「錯覚」に陥りそうだけどそれはまたそういう「物語」である、っていう(のをどこかで読んだかも…w)
とりあえず、誰もが持っているもので、なくしたりはできない、という前提で
では、どういうものをどう持つべきか、を、
これからはいちいち考えなきゃいけない。ってことなのかな。
こういう古代のでも現代のでも、宗教観とか思想とか言うものを、ある程度倣うというか、見直さなきゃいけなくなるんじゃないのかな。
うちなんかそういうので見てるしね。まともなものもってないくて。
(いやでももちろん、ある程度は持っているんですよ、だからそこまで不安につぶされるみたいにならない)
何かを信じているということは
それを芯に立つことだから
芯がないより
強いよねえ
うちが生まれるより前の時代は
いろいろ規制が多かったから、「自由」が大事だと思われていたけど
自由、何をしてもいい、白紙。ってなると
逆に不安になっちゃう。ということを、最近はみんな実感していると思う。
縛り付けられたくはないけど、枠はあってほしい。
どこかに所属して、そこに「いてもいい」と感じていたい。
というきもちがすごくある。
それは、縛られずに来たためで、幸せだと言えばそうだけど
何も軸がない感じがする。
誰もがそれを自分で探すんだろうけど
はじめからなにかの軸が(いやでも)示されてある場合とは違うはずで…。
はじめから何かある時は、まず、今までのものを「否定するか、肯定するか」yesかnoか、くらいの選択肢になると思う。
でも枠がないと、選択肢自体が広がりすぎてて。
選択するというのは、大変骨の折れることなので。対象が多ければそれだけ疲弊もする。
だからっていうか。なんかむずかしいなあーとおもう。それで神話とか見てるかもしれないなあ。
「依れる・拠りたい」と思うものを探してるんだよなーたぶんね。
あーそれと
この本で、アイスランドのアザラシ漁では「すべてを無駄にしない(尊ぶ)者」を「狩られる側(アザラシとか)」が選ぶ、という話。
この前聞いたアイヌのやつと同じだよねーとおもった。
神話、というか、物語の「素」の伝搬、流れというのと
物語られた時の社会的な構造というのが、神話には反映されてそうだよね。
(これはどっちだろ?)
だからー、天と地を創造したひとつの何か、みたいなのが出てくるのは、ひとりトップが立って国作ってるような社会の構造を持ってるもんだよね。
つまり、
神話の「始まり」は、天地創造ではありえない。
天地創造は、神話のあとのほうに語られるもの。っぽいよね。
むかし語られていたことをのみこんで。周囲のものを体系化していって。
神話は権威的なもので
だからこそ、明確な意図を持って語られたものだ、とこのへんにも書いてた気がして、だよねーて思ったんだけど
エジプトの場合はその「意図して作る」役割を担ったのが、ヘリオポリスだったのではとか想像したんだよね。(その役割をもって、国の中で優位な位置を保ったというのがある気がして。たいていは、産出するものとか交易の要とかで重要な地になるのに)
創世とその神、その系譜に王を組み込んだ「物語」をつくり、民衆を説得する。その物語を共有させることで、「王は神」であるという共通認識を植えつける。
そうして初めて、「国」という社会が出来上がる。
国をひとつにまとめたのは、王はホルスであるという神話なんだね…。
それが意図的でなければ何だろうと思う。天地創造にそれ以外の意図があるだろうかとかおもう。
ただ天がそこにある理由、だけなら、まだ民話に近い神話であって(天は牛である、とかね)、そこに「権威的な存在」が「ただ一人」いたりはしないと思う。
天地「すべてのはじまり」を生じた「ただひとつの者」、を語りだすと、権威的になるなと思う。
そして神話ははじめからそうは語っていなかったんだろうと思う。
(あっこれ、どこからを「神話」とするか、みたいな話になるな!)
ヘリオポリスにそういう物語創るのうまい人がいたんじゃないかな
そしてその手法を様々なものに当てはめていった。それで、宗教の中心地みたいになったのかな、みたいな想像をしてしまう。しらんけど。想像です
ヘルモポリスはもしかしたら天文学とかそういうのはすごくて、そういう知識は尊敬されてたのかもしれない、
でも「物語」を作ったヘリオポリスの影響はすごかったんだろうなって。
まあそのへんはただの想像だけどね…
違う本だけどたまにつまんでるやつw
ヘリオポリスとヘルモポリスの(とたまにメンフィスの)神話をつなげて「合理的」なひとつの神話をつくりだすのはおかしいってすごい批判してて、分かる――て思った。
いやでもしがちですよね。そのほうが「体系的」で「納得感がある」から。
そう私たちは分かりやすくちゃんと道が一本につながってるほうが好きですよ。わたしもそうだし。
でもそれらは実際別のもので。
それぞれある程度影響を与え合ったとしても、「それらを合わせてひとつ」にするのは、ただの捏造になっちゃう。
実際は本当に複雑にまじりあってるけど、「順番に発達したわけではない」ということは、気を付けておかないといけないのかなって思ったところです。
わかったですか成美堂から出たやつ。
ウジャトをワジェトって書いてたしwikiから採ってるのあるやろ…と思ってしまったですよ。でもあれ全部一人でイラストかくの大変だよねすごい。
でもやっぱいろんな神話を単に「物語」としてそれぞれ比較して見るってなんか好きになれないや…いろいろ抜け落ちて、エジプトは「ネタ枠」にしかなんねえんだもん…。w
はいメモいっぱい